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【小説】ある駅のジュース専門店 第30話「呪縛」

 その日、私は電車に揺られていました。別に決まった行き先がある訳ではなく、ただ、繰り返される日常からなんとなく逃避してみたかったんです。言葉で説明がしにくいんですが、たまには旅行にでも行こうかと思いついた時の、あの感覚といえば分かっていただけるでしょうか。
 私は自分が生まれ育った町からあまり出た事がありません。生活に必要なものは大抵揃っているし、遊園地だってあります。幼い頃は両親に連れられて、よくその遊園地に遊びに行ったものです。園内に入った時の高揚感、自然と足取りが軽くなるような楽しい音楽、ポップコーンの甘い香り、頭上を駆け抜けていくジェットコースターと叫び声。それらは幼少期の私にとって五感全てで体験できる娯楽であり、遊園地という空間全体が、日常から離れて思いっきり遊ぶことのできる異世界でした。
 でも、子供の頃は遊園地に行くだけで日常からの逃避ができていたのに、大人になると、もうそこに行くという選択すらしなくなっています。きっと、子供の頃よりも視野が広がってしまったからでしょう。かつては異世界のように思えていた遊園地も、実際には日常と地続きの地元の施設でしかなく、そこに行っても十分な逃避にはならないと気づいてしまった。
 だから私は、住み慣れた町から離れようと思いました。町から離れられればどこだって良い。知らない景色の中に降り立って、また子供の頃のように、異世界に迷い込んだような感覚を味わいたかったんです。
 久しぶりに乗った電車は、がたんごとん、と規則正しい音を奏でて走り続けていました。少し硬めの座席の感触も、慣れてしまえば心地良い。車体の振動に身を任せているうちに、だんだんとまぶたが重くなってきます。ああ、もう、このまま眠ってしまおう。私が眠っている間に、きっとこの電車が知らない世界に連れて行ってくれるでしょう。
 私は鞄から手を離し、身体の力を抜いて、睡魔に全てを委ねることにしました。

「見てみろ誠一せいいち
 日光が差し込む自宅の温室。黒髪の父が、こちらを見て笑っています。いつもより視点がずっと低いから、父が巨人のように見えました。
「サラセニアっていう植物を買ってきたんだ。食虫植物らしいんだが……ほら、小さくて可愛いだろ?」
 父が指差す先には、水を張ったバケツに入った植木鉢。その中に敷かれた土からいくつも顔を出す捕虫葉。まだ小さいので可愛らしいと思ってしまうのですが、葉に浮き出た赤い網目模様が滴る血のように見えて、やっぱり怖かったです。
「誠一、サラセニアは自分の葉っぱに入った虫を食べるんだ。別に人を食べる訳じゃない」
「でも、葉っぱに入ったものを食べるんでしょ? これが人より大きくなったら……」
「人より大きくはならないよ。せいぜい七十センチとかそのぐらいだ。心配しなくても大丈夫」
 父は笑いながら私の頭を撫でました。
「昔、植物が人を食べるって映画はあったけどな」
「えっ……」
「大丈夫大丈夫。現実には有り得ん。ごめんなぁ、怖がらせて」
 繰り返し頭を撫でられているうちに、ふと、誰かに見られているような感覚を覚えました。視線の方へ顔を向けると、植木鉢の中のサラセニアの捕虫葉が、一斉にこちらを向いていたんです。
「うわあぁっ」
「誠一? どうしたんだ。やっぱり怖いのか」
 父は困ったような笑顔を見せ、「そうだ、あっちにヒマワリが咲いてるぞ。見に行くか?」と手を引いてサラセニアから離してくれました。

 目を覚ますと、電車の窓から見える空は、もうすっかり暗くなっていました。
 父はもう亡くなっているのに、どうして今頃、こんな夢を見たんだろう。懐かしさと寂しさで、胸がほんの少し締め付けられました。
 あのサラセニアは、植えられてから一年ほどで五メートルにまで生長を遂げましたが、それでも父に我が子のように愛されていました。でも私にとっては、もはや化け物としか思えませんでした。こんなに大きくなってはいつか虫だけでなく、人まで喰ってしまうのではないか。そう考えると、怖くてたまらなかったんです。
 私が四十歳になった頃、あのサラセニアはとうとう、人を喰いました。家族旅行から自宅に帰ってきて温室へ向かった父がいつまで経っても戻ってこないので、様子を見に行くと、サラセニアの葉の中に溜まった消化液に、父の服と靴が浮かんでいました。しばらく父が亡くなったという実感が湧かなくて、今でも、いつかひょっこり帰って来るのではないかと考える時があります。
 そして、父を喰ったサラセニアは、今から五年前に温室の植木鉢から姿を消しました。あまりに現実味の無い話ですが、あれだけ巨大で人まで喰ってしまったあいつのことだから、ひとりでに植木鉢から逃げ出してもおかしくはない。不思議とそう思えました。
「間もなく、⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎です。お出口は、左側です」
 ノイズ混じりのアナウンスが響き渡りました。電車は白い駅舎とホームへ近付いていきます。知らない駅でした。空気がなんとなく重かったんですが、ここで降りれば日常からの逃避ができると思いました。
 私はその駅で降りました。看板に書かれた駅名は、まるでデタラメに書いた漢字のようで全く読めません。何と読むんだろう。看板を見つめていると、ふと、駅の入口の方から甘い香りが漂ってきました。果物畑の中にいるような香りです。なぜか懐かしさを覚え、香りに誘われるまま、駅舎の中に入っていきました。
 同じ大きさのタイル、蛍光灯、シャッターが均等に並んだ構内。無機質な風景の中に漂う甘い香りはとても異質なものに感じられました。香りが強くなるにつれ、だんだんと懐かしさも増していきます。
 どこで嗅いだんだっけ、この香り。どこかで嗅いだことがある。ああそうだ、父を探してサラセニアの葉の中を覗き込んだ時の——。
 気づけば、一軒の店の前に立っていました。その店だけピンク色のネオン看板が煌々と灯り、店内もピンク色の照明で照らされています。甘い香りにむせそうになりながら店内を覗くと、黒いカウンターの奥に店員らしき人影が見えました。
「いらっしゃいませー」
 黒いマスクを付けた店員が気怠げな声で言いました。会ったことが無いのに、まるで幼馴染を見かけたかのような懐かしさを覚えました。
「……あぁ、お久しぶりです。良かった、元気そうで」
 店員がそう言うので、やはりどこかで会ったことがあるのかと思い、私も話しかけてみました。
「すみません、お知り合いでしたっけ……」
「ええ。知り合いも何も、私達、ずっと一緒に育ってきたじゃないですか」
「え?」
 店員の目が、すっと細められました。
「私が家を出ちゃってから、今までずっと会えてなかったんで、いつか会いたいなって思ってたんですよ。ここでまた会えて、本当に嬉しいです」
「ま……さか……」
 店員の細い指が黒いマスクに掛けられ、マスクが外されて、隠されていた口元があらわになりました。薄い唇の周りに張り巡らされているのは、滴り落ちる血にも似た、真っ赤な網目模様。
「思い出してくれた? 誠一くん」
 吊り上がった唇の奥から、白い牙が見えました。私は目を見開いたまま動けませんでした。
「お……前……あ、あの……」
「そんなに怖がること無いじゃん。一緒に育った仲なんだからさぁ」
 私が後ずさるのに合わせ、店員もこちらに近付いて来ます。
「く、来るな……! どうしてお前がここにいるんだ……ひ、人の姿で……」
「前から人に興味あったし、どうせならなってみようかと思って。それに……これなら人だと思って自分から話しかけてくれるからねぇ。良い餌が」
 店員は猟奇的な笑みを浮かべました。餌、というのはおそらく人のことなのでしょう。やはりこのサラセニアは、人を喰う化け物になっていたんです。
「と、父さんを喰ったのも……餌、だから……?」
「まぁな。空き巣だけじゃ満足できなかったから、せっかく世話してくれたけど……喰っちまったわぁ」
 開いた口から長い舌がだらりと垂れ下がり、牙から唾液が糸を引きました。
「じゃあ……じゃあ、次は」
「言わなくても分かってんだろ」
 店員は私の反応を楽しむように、じりじりと近付いてきました。逃げようとしても、身体が全く動きません。
「せっかく匂いにつられて来てくれたんだから……ゆっくりしていけよ」
 視界に映る店員の笑みが、涙で霞んでいきました。
 ああ、電車で住み慣れた町を出ても無駄だったのか。どれだけ日常から遠ざかろうとしても、暗い過去を忘れようとしても、結局は父を喰った化け物のところに戻って来てしまう。どうせ知らない場所へ行けないのなら、いっそ——。
「……え……」
「あ? なんて?」
 私は必死に声を張り上げました。
「……喰え……喰いたいなら、喰ってくれ……! それでお前は満足するんだろ⁉︎ 私だってどうせもう長くは生きられない……長くてあと三十年……お前や父のことを忘れられずに生きるくらいなら、いっそここでお前に喰われた方がマシだ! 頼むっ……喰いたいなら喰え! 一思いに喰ってくれぇえ‼︎」
 すると店員が無表情で顔を近付けてきたので、震えながらぎゅっと目をつぶりました。たとえ噛みつかれても喰いちぎられても良いように、覚悟を決めました。
 頬に何か生温かいものが押し当てられ、目元までゆっくりと撫でられました。撫でられた部分が濡れていくのが分かりました。どうやら舌で舐め上げられたようです。
「っひ……ぅ」
 思わず声を漏らすと、くっくっと喉の奥から笑いを漏らす音が聞こえました。
「情けねぇ声出してんなぁ。やっぱ面白ぇわ……まぁ、喰わねぇけど」
「……え?」
 目を開ければ、店員はこちらを冷たく見下ろしていました。
「求められると萎えるんだよ。それに、さっき味見してみたけど、肌カッサカサで不味いし。これじゃ非常食にもなりゃしねぇ」
 どうやら化け物は私を喰わないと決めたようでした。ほっと息を吐きましたが、その時気付きました。これでは今までと何も変わらないことに。
 私は、父がサラセニアに喰われたあの日のことを綺麗さっぱり忘れたかったんです。日常からの逃避を試みたのも、サラセニアの消化液に父の服と靴が浮かんでいた、あの恐ろしい光景を忘れたかったからでした。でも、こうして父を喰った化け物の元に来てしまった。忘れたかった記憶の一番近くに戻ってきてしまったんです。だから、いっそのこと喰ってくれと頼んだのに。これでは何も意味が無い。
「そんな……頼む、喰ってくれ。忘れさせてくれ!」
「忘れさせるって、何を? お前の父さんのこと?」
「ああ……今でもずっと覚えてるんだ。お前に、父さんが喰われたのを見た時のこと……」
「なら忘れずにいろ」
 低い声で嘲笑われました。
「私のこと、お前には覚えててもらいたいから、忘れたくても忘れさせないようにするわ。その方が面白い」
 化け物はそう言って、冷たい指で頬を撫でてきました。
「人の望みに従うより、望みと正反対のことをした方がずっと面白いんだよ。そうすれば、良い顔してくれるだろ? 今のお前みたいに」
 顎を掴まれ、顔を上げられました。化け物はいっそう楽しげに笑っていました。
「やっぱり変わらないねぇ。子供の頃は怖がってあんまり近付いて来てくれなかったけど……せっかくこうして会えたんだから、仲良くしましょう? 誠一くん。そんなにぶるぶる震えないでさぁ」
 やけに艶めかしい声が耳の奥に流し込まれました。もう恐ろしくて恐ろしくて、私はただ何も言わずに震えていることしかできませんでした。
「ふふ……良い顔だからずっとこうして見ていたいけど、帰りの電車もあるだろうし、今日はこのまま帰すわ。じゃあな」
 ぱっと手を離すと、化け物は続けてこう言いました。
「まぁ、どうしても喰われたいって言うんなら……うちの店の噂でも広めて来いよ」
「え……う、噂?」
「ああ。噂が広まったら興味を持った客がたくさん来てくれるし、客が増えれば増えるほど喰うものにも困らなくなる。そうしたら肉の好みも広がって、お前も喰えるようになるかもしれない」
 少し切れ長の黒い瞳が、じっと私の目を見ました。
「お前にとっても得になるだろ?」
 その瞬間、私は頷いていました。いつか喰われるのなら。父が亡くなった日のことを忘れられるのなら。
 化け物は、ふっと微笑みました。
「じゃ、頼むわ。SNSしてなかったら別に口伝えでも良いし」
「……わ、分かった。じゃあ、また」
 そうして店から出ようとした私の後ろから、艶めかしい声が絡みついてきました。
「誠一くん。これからもよろしく」
 これからも、という言葉が、私には呪いに似た言葉に聞こえました。私は呪いから逃げるように走り去りました。

 こんな出来事があったから、私はこうして文章に書き起こし、皆様にお話を読んでいただいているというわけです。
 こうして今あの日のことを振り返ってみると、私は本当に馬鹿だと思います。どうか笑ってやってください。父を喰った化け物に自分を喰ってもらうために、それで父が亡くなった日のことを忘れるために、化け物に良いように使われているんですから。
 あいつ、今頃喜んでるでしょうね。私に自分のことを忘れさせないようにできたって。本当に、どこまでも、恐ろしい奴。

                〈おしまい〉

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