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【小説】ある駅のジュース専門店 第26話「夢」

 小学生の頃に一度だけ、怖い夢を見たことがある。
 夢の中で、私は母と共に、町中のデパートに買い物に行くためバスに乗っていた。私は窓際で、隣に座る母の肌の温もりを感じながら、流れていく景色を眺めていた。
 すると、今まで明るかった窓の外が突然真っ暗になって何も見えなくなった。急に怖くなって母の方に振り向く。
「お母さん」
 母も不安げな顔をしていたが、大丈夫、大丈夫と繰り返し言って背中を撫でてくれた。
 その間もバスは闇の中を走り続け、やがてアナウンスが流れた。
「次は、終点……⬛︎⬛︎駅前。⬛︎⬛︎駅前」
「え、終点? なんで?」
 隣で母が小さく声を上げたので、ますます不安感が増す。
「お母さん……?」
「大丈夫、大丈夫だよゆう。次、信号でバスが止まったら運転手さんに確認しに行こう」
「う、うん」
 しかし、結局バスが途中で止まることはなく、薄暗い駐車場まで来てしまった。
「……とりあえず、降りてみようか。ここ階段あるから気をつけてね」
「うん」
 母と手を繋ぎながら段差を降り、運転席に近づく。
「あの、すみませ……え?」
 母が目を丸くした。
「いない……なんで?」
「どうしたの?」
「運転手さんがいないの。どうしよう……うーん……い、一応、お金払おっか。ほら、この箱に、お金と紙を入れるんだよ。さっき乗る時に入口でもらったやつ。そうそう。それを、ここに入れるの」
 私を安心させようと笑顔で話しかけてくれる母の声は明らかに上ずっており、動揺が表れていた。不安を抱えながらも、私は運賃箱にお金と整理券を入れてバスを降りた。

「……それにしても、ここ、どこだろうね」
 辺りを見回しながら言う母を見て、二人とも知らない場所に来てしまったんだと感じた。
 数本並んだ街灯の頼りない明かりに照らされながら、目の前に佇む駅らしき建物に近づく。駅は闇の中で、白い輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。入口の上で不規則に点滅する看板に目を凝らすが、何駅なのか全く分からない。ぐねぐねと曲がった難しい漢字のような駅名は母にも読めなかったようで、看板に向かって眉をひそめていた。
 すると突然、駅の入口の奥からふわりと甘い香りが漂ってきた。イチゴのような香り。香りを鼻から吸い込んだ途端に喉の渇きに気付く。
「お母さん、なんか飲みたい」
「私も……甘い匂いするから、駅の中にお店があるのかもね。行ってみようか」
「うん」
 緩い階段を上り、入口を通る。駅の中は外から見た時よりも広く、売店や飲食店らしきスペースがたくさん並んでいた。しかし、それらの店はみんなシャッターが降りていて入れなかった。
「開いてないね」
「うん……」
 私は辺りを見回しながら、母の手をしっかりと握った。母が一緒にいるとはいえ、他に人の気配が全く無い場所を歩くのは怖かった。
 シャッター街の中ほどまで来た時、私の目に鮮やかな明かりが飛び込んできた。
「あ!」
 一軒だけ開いている店があった。ピンク色や紫色や水色のネオン看板を掲げ、店内のピンク色の照明を煌々とつけた店。
「可愛い……!」
 思わず母と繋いでいた手を離し、店の方に走っていく。
「優!」
 後ろから飛んでくる声から逃れ、構内と店の境目まで来ると、いきなり店の奥の扉が開いた。
「あっ……」
 店の奥から出てきたのは、一人の店員。赤いシャツの襟元に黒いネクタイを締め、黒いズボンと靴を履き、黒いエプロンを腰に巻いている。うなじ辺りまで伸ばしたウルフカットの黒髪を片耳に掛け、店の明かりに照らされて金色のリング状のピアスが光る。口元は黒いマスクで隠れているが、目元からでも美しい顔立ちなのが分かる。ただ、背がとても高かったので、威圧感を感じてしまって思わず後ずさる。
「いらっしゃいませー……どうされました?」
「あ……えっ……と」
 口ごもる私の後ろで「あ、すみません!」と母の声がする。
「すみません、この子と一緒に開いているお店を探していたもので……あの、ここって何屋さんなんですか?」
 店員は少し切れ長の目を母に向け、気怠げな口調で答えた。
「うちはジュース屋です。ラズベリーソーダとストロベリーソーダがありますけど……お客さん方、なんか飲みます?」
「あ、ジュース屋さんなんですね……! 優、ジュース飲めるって。イチゴのジュースあるんだって」
「イチゴのジュース? やったぁ!」
 私は大好きなイチゴの味のジュースで喉を潤せるのを喜んだ。
「じゃあ、ストロベリーソーダを二つ、お願いします」
「かしこまりました。では、こちらでお待ちください」
 店員は私たちをカウンター席に案内し、ジュースを作り始めた。

「お待たせしました。ストロベリーソーダです。どうぞ」
 数分後、店員がプラスチックの容器を差し出した。ストロベリーソーダの鮮やかな赤色と店員の黒いマニキュアがとても綺麗だった。
「ありがとうございます」
 母の声に合わせ、店員の顔を見上げてみる。長いまつ毛と吸い込まれそうな黒い瞳。美しかったが、背の高さからか、やはり少し怖く感じてしまう。
 じっと見つめていると店員の目がこちらを向きそうになったので、慌ててジュースに視線を落としてストローを口に運ぶ。しゅわしゅわと弾ける炭酸とイチゴの甘酸っぱい味が乾いた喉を潤し、染み渡っていく。隣でジュースを飲んでいる母も、幸せそうな顔をしていた。
「美味しい!」
「美味しいね」
「ありがとうございます」
 店員の目がすっと細められた。その笑った目になぜか恐ろしいものを感じ、私は視線を逸らした。

「あの……次のバスって、いつ来るかご存知ですか?」
 ジュースを飲み終えた後、母は店員にそう尋ねた。
「バスですか? ああ、あと二十分で来ますよ」
「二十分ですか。ありがとうございます」
 母は安心した顔をこちらに向けた。
「優、あと二十分でバスが来るよ。やったね」
「うん!」
 笑顔で頷いた私の耳に、低い声が入ってきた。
「帰れませんよ。残念ですけど」
「えっ?」
 店員の方を振り向いた母の目が、大きく見開かれる。
「私もねぇ、お腹空いちゃったんで」
 店員はマスクを外し、口元を見せていた。両目の下、頬全体を覆い尽くす血管のように張り巡らされた赤い網目模様。薄い唇が動くたびにちらりと見える、白い牙。
 がたん、と大きな音が店に響く。母が座席からずり落ちたのだ。床に腰を打ちつけ、痛みに顔を歪めながらも、店員からなんとか距離を取ろうとしている。
「……ぁあ……あ……ゆ……優……離れ……」
 喉の奥から絞り出される声を聞いてもすぐには動けなかった。しかし、店員がこちらにゆっくりと視線を動かすのを見てようやく体が動いた。
「お母さ……!」
 母の方を振り向いて駆け出そうとした時、私は再び固まった。
 店の入り口のシャッターが降りている。これでは店から出ることができない。閉じ込められた!
「優!」
 母が叫んだ。瞬間、後ろから肩を掴まれて強く押し除けられる。床に倒れ込んだ私の後ろで、震えた声が聞こえる。
「な、何するの……来ないで……く、来るなっ……!」
「はははっ、そりゃあ怖いだろうなぁ」
 楽しげに笑うのは店員の声だった。さっきまでの淡々とした話し方ではなく、地を這うように低い、恐ろしい声だった。
「安心しな。痛くしないよ」
「嫌ぁ‼︎ 離せっ化け物‼︎ 優に何かしたら……何かしたらっ……」
「何もしねぇよ。私が今一番欲しいのは……お前の新鮮な肉だけだからな」
 ぞくりとした。なんとか身体を動かそうとするが、恐怖のせいか振り向くことすらできない。
「嫌ぁああ‼︎ 離して‼︎ 触るな‼︎ 誰か‼︎ だっ……」
 絶叫が途切れ、恐る恐るそちらを見ると、母がシャッターにもたれかかっていた。どうやら気を失ってしまったらしい。そして、その母の足を店員の手が乱暴に掴み、ずるずると引っ張っていく。店員はこちらには目もくれず、母を引きずって店の奥の扉の中へ消えていった。
 私は床に手をついたまま呆然としていた。目の前で起こったことが信じられない。店員が化け物になって母を連れて行ってしまうなんて。頭の中がぐちゃぐちゃになって、冷静な思考ができなかった。
 ふと気がつくと、すぐ近くに店員の顔があった。悲鳴を上げて後ずさる。店員の唇の両端が吊り上がった。
「良い反応するねぇお前。確か……優ちゃんだっけ? もし大人だったらすぐに喰ってたわ」
「お……お母さん……は」
「お母さん? お母さんに会いたいの? ふふ」
 こつん、こつん、と靴音が近づいてくる。逃げようとするが、身体が全く動かない。店員は目の前にしゃがみ込んで、耳元に唇を寄せ、声を頭の中に流し込むようにゆっくりと囁いた。

「お母さんはねぇ、もう、たべちゃったぁ」

 両目が熱くなって涙がいくつも溢れ出す。店員の愉悦そうな顔がぼやけていく。
「可哀想に。これから一人ぼっちだもんねぇ」
 細い指が頭を撫でる。
「や……ぁ……さ、わらない、で……たべないで、ください……っ」
「お前は喰わないよ。ガキなんて嫌いだし」
 吐き捨てるようにそう言って、店員は私を見下ろした。口角が下がり、真顔になっていた。
「もうすぐバス来るから、それに乗ってさっさと帰りな。早く帰りたいんだろ?」
「え……」
 戸惑っていると、いきなり身体を抱きかかえられる。
「わぁあ……は、離し……っ」
「喰えねぇのにここにいられちゃ困るんだよ。それとも……また私の腹が空っぽになるまで待つ? いくら嫌いなガキでも、腹が減ってる時に喰ったら美味いのかもなぁ」
 店員は大きく口を開けてみせた。鋭い牙の奥から唾液で濡れた長い舌が現れ、下唇からはみ出してだらりと垂れ下がる。
「ひっ……」
 縮こまった私を見て、目を糸のように細める。
「早く帰らないとねぇ。優ちゃん?」
 必死にこくこくと頷く。店員は満足げに笑みを浮かべながら、私を駅の前まで連れて行った。
 駅の前には既にバスが来ていた。店員が乗降口の前に立つと、扉が開く。
「じゃあな」
 店員は私を乗降口の段差に降ろした。私が何か言う前に、吊り上がった唇の奥からやけに艶めかしい声が楽しげに発せられる。
「大きくなったら、またお越しくださいねぇ」
 何も言えなくなった私の前で扉が閉まる。店員の姿は、もうどこにも無かった。

 恐ろしい夢だった。この夢を見た日から、母は姿を見せなくなった。バスに乗るのも怖くなったので、電車で行ける高校に進学した。
 高校では友達にも恵まれ、楽しい毎日を過ごせていた。だから、この夢の記憶も少しずつ薄れ始めていた。忘れかけていた。
 忘れられると、思ったのに。
 今、帰りの電車に乗った私は、また恐ろしい夢の中にいる。うとうとしてきて、居眠りをしてしまって、目を開けると見覚えのある駅舎が窓の外に見えた。
「間もなく、⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎です。お出口は、左側です」
 電車のドアの外に、あの店員が目を細めて立っているのが見えた。

                〈おしまい〉

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