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【小説】ヴァン・フルールの飴売り 第0話

※この小説は『ヴァン・フルールの飴売り』本編に繋がる前日譚であり、本編のとても重要な部分に触れています。したがって、この「第0話」は本編読了後にお読みいただくことを強くおすすめします。

第1章 ポテー

 ポテーは人見知りだった。周りで同年代の子が楽しげに遊んでいても声を掛けることができず、ただ一人静かに花を摘んで冠を作っているような、引っ込み思案な天使だった。
「ねぇ、何してるの?」
 声を掛けてきたのは、長い髪の女の子だった。大きな翼が雪のように白く煌めいている。花の冠を見せると、「わぁ、綺麗……どうやって作るの? 教えて」と目を輝かせて笑う。その笑顔があまりにも眩しくて、しばらく目を合わすこともできなかった。それがキャロルとの出会いだった。
 その日から、ポテーはキャロルと一緒に遊ぶようになった。花の冠を作ってお互いの頭に乗せたり、好きな花を教え合ったりした。彼女と出逢ってから、今まで色褪せて見えていた世界が鮮やかに色づいたように感じた。キャロルと遊んでいる時間が、何よりも幸せな時間だった。
 当時、ポテーには憧れの天使がいた。天使たちのリーダーを務めるルシファーである。十二枚もの翼を持ち、美しく、広い視野を持ってどんな階級の天使にも優しく接してくれる。そのため多くの天使たちから慕われていた。ただひとつだけ欠点を挙げるとすれば、傲慢であることだった。
「なぁポテー」
 ある時、ポテーは憧れのリーダーに声をかけられた。
「もし神がいなくなったらどうする?」
「……え?」
 唐突に発せられた不穏な言葉に、ポテーは眉をひそめた。
「あ、あの……何を言って……」
「あぁ、すまない。今、まだ神は生きているから想像がつかないよな」
 ルシファーは意味ありげに唇を歪めた。
「もし、私たちを生み出した神が突然いなくなったとしたら……次は誰が神になると思う?」
「え……うーん、神様がいなくなるなんて、想像もできませんが……もしそうなったなら、次に我々を率いるのは、やはり……ルシファー様だと思います」
「そうか……ありがとう。ふふ、そんなに暗い顔をするな。今の話はただの冗談だから」
 遠くでポテーの名を呼ぶ声が聞こえる。辺りを見回すと、キャロルが手を振っているのが見える。
「あ……すみません、もう行かないと」
「引き止めてしまってすまない。遊んでこい」
「はいっ」
 キャロルの方へ駆け出そうとすると、後ろから「なぁ」と呼び止められた。
「もし、今の話が本当になったら……お前は私について来てくれるか?」
 微笑みながら問いかけるルシファーの瞳には、暗い輝きが宿っていた。

「おーい、ポテー!」
 次の日、キャロルは親友がこちらに歩いてくるのを見て手を振った。
「今日も一緒に遊ぼ!」
 しかし、ポテーは暗い顔で首を横に振る。
「ごめん、今日は一緒に遊べないんだ」
「そうなの? なにか用事?」
「うん」
 ポテーはどこか遠くを見て言った。
「……ルシファー様のところに、行かなきゃ」

 それから毎日、ポテーはキャロルの誘いを断り続けた。理由を聞かれてもはっきりとは答えられず、ただ「ルシファー様のところに行く」とだけ伝えて去った。その時のキャロルの寂しそうな顔を見ると、胸がちくりと痛んだ。しかし、仕方ないのだと自分に言い聞かせてルシファーや他の天使が集まっているところに合流し、「準備」を着々と進めていった。何日も何日も、そんな日々が続いた。

 ある朝、キャロルはあまりの騒々しさに飛び起きた。なにやらざわめく声。金属がぶつかり合う甲高い音。どさり、と物がぞんざいに置かれたような重い音。何事かと見に行ってみると、たくさんの天使たちが剣や槍を持って激しく争っている。
「え、な、なに⁉︎ なにこれ⁉︎」
 同じ天使なのに、なぜ。キャロルは争いを止めようと声を上げた。
「ねぇみんな、どうして戦ってるの? 私たち、仲間同士でしょう?」
「ルシファーが裏切ったんだ!」
 一人の天使が叫んだ。
「あいつが大勢の天使をそそのかして裏切りやがったんだよ! あいつらなんか、もう仲間でも何でもない!」
 胸騒ぎがした。もしもそれが本当なら。そのことと、親友の「ルシファー様のところに行く」という言葉が関係しているとしたら。
 キャロルは駆け出した。返り血が飛んでくるのを避けながら、天使たちの顔を確認して回る。みんな争うのに夢中でキャロルに目を向けない。足を進めれば、そこかしこに剣や弓や槍を放り出して倒れ込む天使たちが見える。足元には血溜まりが広がり、彼らの真っ白な翼を鈍い赤色に染めている。目を背けたくなるのを堪え、顔を一人ずつ確認していく。どれも見知った顔ではないが、虚ろに半分開かれた瞼を見ると悲しみが押し寄せてくる。キャロルは手のひらでそっと天使たちの瞼を閉じさせ、涙を零しながら立ち去った。

 血液の線がわだちのように続いている。その先に、ポテーが佇んでいた。美しい金色だったはずの髪は、返り血で真っ赤に染まっている。純白の翼にも血が付いて、徐々に黒ずみ始めていた。
 近くに血まみれの槍が落ちているのを見て、キャロルは察した。きっと彼はルシファー側に付いて戦っていたのだろう。そして、仲間だったはずの天使を何人も何人も倒したのだろう。髪が赤く染まるほどに。
「ポテー!」
 呼びかけると、ポテーは振り向いた。泣き出しそうな子供のようにも、同時に全てを諦めているようにも見える表情だった。
「……ごめんね」
 穏やかな口調で言ってみせるのが余計に辛い。キャロルは駆け寄った。
「なんで……なんで、こんな……」
「分かんない。でも、こんなことになっちゃったら、今更引き返せないよね。ごめんね」
「あなたのせいじゃないよ……全部、ルシファー様……ルシファーが」
「ううん、僕のせいだよ」
 ポテーは首を横に振った。
「僕が悪いんだ。大事な選択を間違えた……ほんとはね、君と、もっと遊びたかったんだ」
 空が曇り始めた。血に染まった髪を雨が濡らす。こびりついた赤色がより濃く、鮮やかに変わる。
「たぶん、もう君とは遊べないと思う。ここにももういられない。悪い事、たくさんしちゃったから」
「……そんなことない」
 キャロルはポテーの肩に優しく手を添えた。
「そんなことないよ。これからも一緒に遊ぼう? また一緒にお花を摘んで、冠を作って……」
「ううん、もうダメなんだ」
 ポテーが視線を移す。見ると、たくさんの天使が遥か下へと降りていく。どれも翼が黒く染まっている。キャロルは息を呑んだ。降りているのではなく、落ちているのだ。天使たちはごま粒のように小さくなって、やがて見えなくなった。
「僕もきっとここから落ちて、あそこに行く。もうここには戻って来られないんだ」
 空が責め立てるようにごろごろと唸り、稲光を散らす。キャロルは叫んだ。
「そんなことない! あなたはまだここにいられる。私が絶対引き止めるから、だから」
「いいよ……いいよ、もう。そんなに強く掴まないでよ」
 ポテーは寂しそうに笑った。
「ありがとう。今まで一緒に遊んでくれて、一緒に遊びたいと言ってくれて……僕を、引き止めようとしてくれて。でも、これからはもう会えないから、僕のことはどうか……どうか、忘れて」
 足元が割れた。キャロルの指がくうを切る。
「ポテー!」
 後を追って飛び出し、バランスを崩して落ちそうになるのを後ろから他の天使たちに引き戻される。雨が止んで空が晴れ渡っても、キャロルはいつまでも泣いていた。

 ルシファーと共に寝返った天使たちは地獄に落ちた。彼らはますます自分たちの生みの親である神に対する憎しみを募らせ、神を困らせようと地上に行って、人間たちに誘惑や悪戯をし始めた。
 しかし、ポテーは誰にも誘惑や悪戯をしなかった。それどころかキャロルを裏切ってしまったことで深く傷つき、できるだけ悪事を働かないように努めていた。地獄で罪人に罰を与える仕事を任されても、地獄から早く抜け出せるよう罪人に助言する。そんなポテーを、他の悪魔たちは変わった奴だとはやし立てた。
「やいポテー」
「図体デカいだけの弱虫」
「弱虫には地獄より辺獄がお似合いだ」
「そうそう、あそこには罪人はいない。案外楽しいかもしれないぞ? ガキと一緒にお遊びできてな」
 耳をつんざくような笑い声がポテーに降りかかる。ポテーは何も言わずにうつむいて、笑い声から遠ざかった。

 地獄に来てから百年以上が経ったある日、ポテーはルシファーに呼び出された。
「友人を裏切ったのが辛いのはよく分かる。だが、いつまでもべそをかいていては何も始まらない。お前にはもうそろそろ立ち直って、仕事に専念してもらいたい。分かるだろう?」
「……はい」
 不本意ながら頷くと、深いため息が聞こえた。
「私は……自分で勧誘した大事な部下を、自分の手で切り捨てるような真似など、絶対にしたくないんだ。なぁ、ポテー」
 地を這うような声と刺すような冷気に、思わず身体が縮こまる。
「……は、はい。申し訳ございません」
 ルシファーの口元が緩み、弧を描いた。
「そんなに過去を引きずっているなら、違う名前を名乗ったらどうだ」
「違う名前……ですか?」
「ああ。名前を変えればけじめがつけられるぞ」
「けじめ……分かり、ました。名前、考えてみます」
 ポテーはしっかりと頷いた。
「名前が決まったら地上に行って、都合の良さそうな人間を見つけてくれ」
「え? 都合の良さそうな……人間?」
「そうだ」
 ルシファーは威厳のある声で言い放つ。
「その人間を騙して殺せ。仕事に慣れるための課題だ。お前ならこれくらい容易いだろう?」
 ポテーは目を見開いた。
「え……そ、そんな……そんなこと……」
 できません、と言いかけたが、ルシファーの期待するような視線に射られると、何も口に出せない。ポテーはぎこちなく頷いた。
「お前の活躍を楽しみにしている。話は以上だ。戻れ」

 一時間ほど考え込んだ後、ポテーは新しい名前を思いついた。そして難しい単語を暗記するように、何度も何度も自分に言い聞かせた。
(僕はチェイス・モータル……もうポテーじゃない。天使じゃない。キャロルとはもう二度と会えないんだ。悪魔になったんだから、悪魔らしく振る舞う覚悟を決めなくちゃ。人間を騙して、誘惑して……とにかく、追い詰めないと。やれ。変われ!)

第2章 チェイス・モータル

 チェイスは緑色のジャケットを着た青年に変身して、地上の小さな町に行った。激しく喧嘩する夫婦。職を失ってうな垂れる男性。マイナスの感情を強く持つ者ばかりが、驚くほどに目に留まる。悪魔として、無意識のうちにそのような感情に惹かれているのだろうか。
 いつの間にか森に入った。人間がいる気配は無いが、森の奥から物悲しい雰囲気が漂ってくる。吸い寄せられるように歩いていくと、今にも崩れ落ちそうなほどに朽ち果てた屋敷を見つけた。汚れを落として壊れた部分を直せば住処すみかにできそうだ。チェイスはさっそく屋敷に入り、魔法を使って屋敷全体を修復した。それからキッチンで料理の練習をし、ある程度の種類の料理が作れるようになってから再び外に出た。
 森の入り口まで戻ってきた時、どこからか静かな泣き声が聞こえた。辺りを見回し、泣きながらふらふらと歩く一人の少女を見つける。少女は五、六歳くらいで、白いワンピースを見にまとい、長い金髪を風に揺らしていた。その髪の長さがなんとなくキャロルに重なって、チェイスは思わず近づいていた。
「どうしたの?」
 安心させるため、少女の目線に合わせてしゃがみ込む。少女はチェイスを見つめ、小さくしゃくり上げながら言った。
「……お家が、燃えちゃって……お父さんとお母さんがいなくなっちゃって……それで……」
「そうなんだ……それは辛いね……」
 チェイスはしばらく考え込み、そうだ、と顔を上げた。
「良かったら、僕の家で暮らさない?」
「え?」
 少女は目をまん丸にした。
「僕の家はね、あそこの森の奥にあるんだ。二人で一緒に暮らせば、きっと寂しくないよ」
「ほんと?」
「うん。ほんとだよ」
 少女は考えを巡らせるように首を傾けると、頷いた。
「私、お兄さんのお家でくらしたい」
 チェイスは微笑んで、「じゃあ、一緒に行こう。ついておいで」と優しく声をかけながら歩き出した。
 チェイスは少女を森の奥の屋敷に連れて行き、豚肉とキャベツの煮込み料理やパンと香辛料を使った菓子を振る舞った。少女は目を輝かせて料理を次々に口に運び、幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう、お兄さん。ええと……名前……」
「あ、僕? ……チェイスだよ。チェイス・モータルって呼んで。君の名前も、教えてくれる?」
「エバ。エバ・サンチェス」
「そっか……エバ、よろしく」
 わざと、少し素っ気なく言葉を発する。それでもエバは「よろしくお願いします」と無邪気に笑う。この子は何も知らないのだ。目の前にいる青年が人では無いことも。この屋敷が彼の本当の家ではないことも。彼が頃合いを見て正体を明かし、自分を殺害しようとしていることも。
 チェイスは胸が締め付けられるような気分で席を立ち、エバを来客用に整えた部屋に案内した。
「ここが君のお部屋。好きなように使ってね」
「わぁ……ベッドがふかふか! ほんとに良いの?」
「良いんだよ」
「やった! チェイスさん、本当にありがとう」
 エバは楽しそうな笑顔を何度もチェイスに向ける。そんなに幸せそうな顔をしないで欲しい。いつかその笑顔が失われる時が来るのが、たまらなく怖くなるから。チェイスの胸が、より一層締め付けられた。

 それからおよそ三年間、チェイスはエバと同じ場所で同じ時を過ごした。毎日エバの部屋を訪ね、彼女の寂しさを少しでも和らげようと、ぬいぐるみやおもちゃで一緒に遊んだ。
 エバが笑うたび、心の中に迷いが生じた。いっそこのまま正体を明かさず、共に過ごしていようか。しかし、それでは今までと何も変わらない。わざわざ名前を変えた意味も、まるで無い。いつかはこの生活を終わらせなければいけない時が来るのだ。チェイスは覚悟を決めた。

 その夜は満月が綺麗だった。チェイスはエバの部屋に忍び込み、ベッドですうすうと寝息を立てている彼女の枕元にしゃがみ込んだ。変身を解き、悪魔としての姿である黒い大きな獣に戻る。その時、気配に気づいたのかエバが薄目を開け、こちらを見て大きく見開いた。
「!」
 今までに見たこともない、怯えた表情だった。恐怖から声が出ず、口を少し開きながら固まっている。
 チェイスは罪悪感で押し潰されそうになるのを堪え、エバの首筋に長い爪を向けて思いきり振り下ろそうとした。エバが布団を強く掴んでぎゅっと目をつぶる。それを見た瞬間、今まで必死に抑えていたものが溢れ出した。
 どうしてこの子を殺さなきゃいけないんだ。どうしてこの子まで、裏切らなければいけないんだ。自分の思いを押し殺してまで悪魔らしさにこだわって、いったい何の得があるんだ。自分も他人も、不幸になるだけなのに。喜ぶのはルシファー様だけだ。尊敬するリーダーの期待に応えるためだけに、僕はこの子を殺すのか。裏切るのか。それだけは、絶対に嫌だ。
 チェイスは腕をそっと下ろし、エバに自分の正体と目的を全て明かした。
「ごめんね……本当にごめん……酷いよね、こんなことして。怖かったよね」
 優しい人間のふりをして三年間も騙してきたのだ。嫌われる覚悟はできていた。
「……君は、僕みたいな奴と一緒にいちゃいけない」
「どうして?」
 エバが、そっと口を開いた。
「どうして一緒にいちゃいけないの? 私、チェイスさんが悪魔でも……良いよ」
「……え?」
「チェイスさんは酷い人じゃない。お父さんとお母さんがいなくなっちゃって、寂しかったけど……チェイスさんがここに連れて来てくれて、一緒に遊んでくれたから寂しくなくなった。ずっと、楽しかった」
 エバはいつものように微笑んだ。
「だから私、もっとここで、チェイスさんと一緒に暮らしていたい」
「だめだ!」
 思わず叫ぶ。
「……だめなんだよ、一緒にいちゃ。僕は君を騙して殺すために連れて来てしまった。君にはきっと、誤魔化すための優しさじゃなくて、本当に心から優しく接してくれる人がいる場所の方が良い。ここよりもずっと、君にふさわしい場所があるはずだ」
 チェイスは再び人間の姿に変わり、エバを抱きかかえた。
「え、チェイス、さん……?」
「……その場所に連れて行ってあげる。ごめんね、エバ」
 エバに魔法をかけて気絶させ、そのまま屋敷を出る。そして町に向かい、孤児院を見つけて門の前にエバをそっと降ろした。
「今までありがとう。どうか、幸せで」
 彼女の側から離れようとしない両足を、無理やり動かして森に戻る。何度も孤児院の方に振り向こうとするのを、ぐっと堪えて屋敷に入る。彼女はきっと、あの場所でたくさんの仲間や大人と共に過ごす方がずっと良い。一度自分を殺そうとした血生臭い化け物と共に過ごすよりは、ずっと。
 チェイスは自室のベッドに倒れ込み、肩を震わせて泣いた。

 キャロルとエバを手放した寂しさは、エバを孤児院に連れて行ってから一年が経っても癒えなかった。少しでも寂しさを無くそうと地獄に戻れば他の悪魔たちからは意気地なしと囃し立てられ、ルシファーからは重圧をかけられる。
「一度失敗したぐらいでへこむな。お前なら課題を済ませられると信じているから命じたんだ。もう一度行け。お前は真面目だから、課題を放棄することは絶対にしない……違うか? もし違うのなら……お前は私の期待さえ裏切ったことになるのだが」
 チェイスは奥歯を噛み締め、「……行ってきます」と暗い声で言った。

 地獄では自分に寄り添う者はいない。しかし地上なら、キャロルやエバのように、そばにいてくれる者がいるのではないか。そう期待しながら彼はあの小さな町に戻り、森で木の実を採っていた一人の少女に声を掛けた。
「僕、この森の奥に一人で住んでるんだけど、寂しくて……良かったら、一緒に遊んでくれないかな。ほんの少しの間だけでいいから」
 少女は訝しげに見つめていたが、すぐに「良いよ」と頷いた。チェイスはほっと息を吐いて、少女を屋敷に連れて行った。
 エバがいた時に使っていた積み木やぬいぐるみが残っていたので、それを使って遊んだ。最初はチェイスを怪しんでいた少女も、すっかり緊張を解いて楽しそうに笑っていた。その無邪気な笑顔が、どうしてもエバと重なってしまう。危害を加えるつもりは無いのに、少しずつ罪悪感が芽生えてくる。
 今ここで正体を明かしたら、きっと怖がられる。だが、ずっと偽ったままでいるのも良くない。本来の自分を知ってもらわなければ。チェイスは意を決して、口を開いた。
「あ、あの……急にこんなこと言ってびっくりすると思うけど……実は僕、悪魔なんだ」
「え?」
 積み木で遊んでいた少女が笑顔で振り向いた。その瞬間に、変身を解く。笑顔が消え、大きな目が見開かれる。
「……っ」
 少女はゆっくりと後ずさる。短く息を吐き出す音。
「あ……ご、ごめん。急にこんな姿見せちゃって。怖いよね」
「……食べる、の? 私を……」
 震えた声がチェイスの耳に届く。
「食べないで……お願い……お家に帰して……」
「た、食べるって、どうして……そんなこと絶対にしないよ。僕はただ、君と遊びたくて……」
「う、嘘……悪魔は、人を騙して食べちゃうんだって、お母さんが言ってた……私をここに連れて来たのも、おもちゃで遊んだのも、私を騙して食べるためなんでしょ……」
「……っ、違う!」
 思わず叫ぶと、少女はびくっと身体を震わせて泣いてしまった。どうして良いか分からず、ただ優しく言い聞かせる。
「ち、違うんだよ。僕は、騙すために連れてきた訳じゃないんだ……本当に、遊びたかったんだ。大丈夫、泣かないで……あ、ほら、クマちゃん。次はクマちゃんと一緒に遊ぼう。ね?」
 ぬいぐるみで安心させようとしてみるが、少女は泣き止むどころかますます激しく泣き始める。きっと、このまま説得し続けても意味がない。そう考えたチェイスは人間の姿に戻り、少女をそっと抱きかかえて森の入り口まで連れて行った。
「ごめんね、怖がらせちゃって……僕と一緒に遊んでくれて、ありがとう。じゃあね」
 少女が涙を拭きながら町へと歩き出すのを見送って、屋敷に戻る。自室に入ったチェイスは考えを巡らせた。
(たぶん、獣の身体をさらけ出したのがいけなかったんだ。人間の身体を保ちつつ正体を明かしていれば、あの子も落ち着いて話を聞いてくれたはず。次はもっと慎重にやらなくちゃ。ここなら本来の僕を受け入れて、そばにいてくれる『友達』ができるかもしれないんだから……)

 チェイスは頻繁に森を出て、町を歩き回るようになった。そして一人、また一人と少女を屋敷に連れて来て共に遊んだ。しかし、結果はいつも同じだった。正体を明かすと皆怖がって、チェイスから離れていってしまう。初めは仕方ないと気持ちを切り替えていたが、同じ状況が何日も続くと、次第に苛立ちが募ってくる。
(どうしてみんな僕を怖がるんだ……悪魔だから? 見た目が怖いから? 悪いことをしそうに見えるから? 僕はただ、『友達』を作ってずっと一緒に遊んでいたいだけなのに)
 その時、チェイスは気が付いた。最初に屋敷に連れて来たエバは、「家が無い」から共に過ごしてくれたことに。そしてその後に連れて来た少女は、「家に帰して」と言ってチェイスから離れたことに。
 どうせ正体を明かしても怖がられてしまうのなら、彼女たちの頭の中から家を、「帰る場所」を、消して無くしてしまえば良い。彼女たちが家を忘れて、家に帰るという選択肢を失えば、きっとここにいてくれる。離れないで、ずっとそばにいてくれる。
「……ふっ……ははははっ」
 乾いた笑いが漏れた。どうして今まで気付かなかったのだろう。魔法で記憶を消すことも、記憶を操作することも、やろうと思えばできたのに。
 でも、これでもう寂しくはない。地上でたくさんの「友達」を作ってずっと一緒にいられる。もう絶対に、手放さない。

 チェイスはこれから「友達」と楽しく暮らすため、キャンディ型の杖を作り、屋敷全体に大きく魔法をかけた。子供部屋を増築し、屋敷周辺の植物は時を止めて枯れないままに。そうしてあらかた内装は整ったが、おもちゃやお菓子が足りない。たくさんの「友達」を迎え入れるために、もっと増やさなくては。そう考えていると、屋敷の扉が開いて、何者かが入って来た。
「……えっ……お、おい、君! 何してるんだ、勝手に入っちゃいかんだろ」
 ほうきを持った、初老の男性だった。チェイスを見て目を丸くしている。
「誰?」
「ここの管理人だ。君こそ何者なんだ? ここの関係者じゃないだろ。早く出て行きなさい。ほら」
 しっしっ、と手で追い払われる。チェイスは眉をひそめた。
「やめてよ。ここはもう僕たちの遊び場なんだから」
「遊び場? 私はここを遊び場にしても良いなんて言ってないぞ。そもそもここはただの廃墟じゃない。ラ・ルルー・シュバリエ家の人間が住んでいた場所だ。町の貴重な財産なんだ。これから綺麗に掃除して、ミステリーツアーの会場としてたくさんの人に公開するんだから、君には出てってもらわなくちゃ困る。さあさあ、早く出て行きなさい。さもないとつまみ出しちまうぞ」
 管理人は催促するようにほうきの柄で床を何度も叩いた。その音が耳障りで、チェイスは顔を歪めた。
「うるさいなあ……せっかくここで『友達』と、仲良く暮らそうと思ってたのに。何なの? 君こそ出てってよ」
「なっ……お前、その言い方は何だ! もう良い、出てけ!」
 管理人がほうきを手に向かってくる。ここで折れて出て行けば、屋敷を改装した意味が無い。かと言って逆に追い返しても、またすぐここに戻ってくるだろう。「友達」と暮らすには邪魔だ。
 チェイスは杖でほうきを受け止めながら考えを巡らせ、あることを思いついた。先程の管理人と同じように、杖で床を叩いて魔法をかける。すると管理人の姿が消え、同時に手回し式のオルゴールが現れてごとん、と床に落ちた。オルゴールのハンドルがひとりでに回り、悲鳴にも似た音が奏でられる。
「これなら、効率的におもちゃやお菓子を集められる。『友達』もきっと、喜んでくれる……」
 チェイスは恍惚とした笑みを浮かべた。その表情に怯えるように、オルゴールが短く音を立てた。

第3章 飴売り

 町の少女たちが次々に失踪し、一週間経っても戻って来なくなった。人々はいくつかのグループに分かれて町のあちこちを捜し回り、その中のあるグループは北の森にも足を運んだ。森は昼間でも薄暗く、そのうえ道が複雑に入り組んでいて迷子になりやすいのだ。
 はぐれないよう慎重に進んでいくと、やがて大きな三階建ての屋敷に辿り着いた。まるで飴のような甘い香りが漂っている。
「なんだ、この香りは……」
「そういえばここって確か、昔、金持ちの家族が住んでたっていう屋敷じゃないか?」
「入ってみよう。もしかしたら、道に迷った子たちがここに辿り着いているかもしれん」
 恐る恐る扉を開ける。屋敷の中は、廃墟とは思えないほど綺麗に掃除されていた。
「……だ、誰かいますか?」
 呼びかけても返事はない。人々は顔を見合わせ、中に足を踏み入れた。
 その途端、どこからか甲高い音が聞こえてきた。びくりとして耳を澄ませる。音は悲しげな旋律を奏でる。どうやらオルゴールの音のようだが、なぜ急に鳴り出したのだろう。
「何しに来たの?」
 すぐ耳元で声がした。うわあっ、と叫んで飛び退く人々の様子を見て、赤い髪の青年がくすくすと笑う。
「だ、誰だお前……!」
「僕? チェイス・モータルって呼んで」
 チェイスは得意げに人々の顔を見回した。
「それで……君たちは、ここに何の用?」
「い、いなくなった子たちを、捜しに来た……」
「へぇ……そうなんだ。でも、悪いけどここは僕たちの遊び場なんだ。すぐに出てってくれないかな」
「……『僕たちの』? 他にも誰か、いるってことか?」
「そうだよ。ここには僕の『友達』がたくさんいるんだ。マリー、カトリーヌ、クロエ、ベアトリス……みんな今頃すやすや寝てるよ。だから、勝手に入ってきて騒がれると困るんだよ」
 すると、そのグループの中の一人が血相を変えた。
「おい! その名前……全部、いなくなった子たちの名前じゃないか。もしかして、お前が全員攫って閉じ込めてるのか⁉︎」
 人々がざわつき、声を荒らげ始める。チェイスは鬱陶しそうに顔を歪めた。
「お前、うちの娘に何をした!」
「うちの孫もだ! 今すぐ返せ!」
「……はぁ……うるさいなあ。そんなにキンキン騒がないでよ。『友達』が起きちゃう」
 唇の奥から鋭い牙が覗くと、怒りを露わにしていた人々が、今度はおののき始めた。
「ひ、人じゃない……」
「み、みんな、怯むな……何としても子供たちを取り返すんだ……」
「ば、化け物め……子供たちはどこだ!」
 ふふ、とチェイスは笑いを漏らす。どうせ自分は人に恐れられる化け物でしか無いのだ。それならその立場を存分に活かそう。人間が怖がってここに近づかなくなれば、「友達」との楽しい暮らしが脅かされることは無い。
「そんなに会いたいなら、会わせてあげる。みんな、きっと喜んで君たちで遊んでくれるよ」
 そう言うと人間たちが何か騒いでいたが、もう相手にするのは面倒だ。杖を振り上げ、床を打ち鳴らす。そして、瞬く間に床に転がったおもちゃの鉄琴やぬいぐるみ、包み紙にくるまれた棒付きキャンディを拾い集めて部屋に戻る。「友達」の喜ぶ顔が目に浮かび、チェイスは一人微笑んだ。
(おもちゃやお菓子が集まって良かった。あと、必要なのは……)

 それから何日か経ったある日、屋敷に大勢の人々が詰めかけてきた。どうやらここを会場にして、ミステリーツアーが開催されているらしい。チェイスはガイドの声に耳を塞ぎつつ、物陰からその様子を伺っていた。
(僕たちの遊び場に、勝手に入って来ないでよ……しかもこんなにたくさん……早く出て行ってくれないかな……)
 ガイドの案内を聴いている観光客たちの中に、黒いワンピース姿の少女がいた。少女はやけに大人びていた。母親と一緒に来ているらしく、しきりに話しかけながら辺りを興味深そうに見回している。この子だ、とチェイスは思った。
(この子ならしっかり言うことを聞いてくれそう……それに、ここから人を追い出すにはそうするしか……)
 彼はさっそく行動に移した。エントランスのシャンデリアの炎を点滅させ、明かりを消す。そしてざわめきの中、音もなく少女の背後に立って、口を塞いだ。驚いて逃げようとするその肩を掴み、身体を抱き上げる。
「落ち着いて。何も怖いことはしないから」
「〜〜っ! 〜〜‼︎」
 少女を抱えたまま廊下に向かい、自分の部屋に入って扉に鍵をかける。腕から降ろされた少女がまだ混乱しているため、優しく声を掛けて落ち着かせる。
「いきなり乱暴な真似をしてごめんね。怖かったでしょう……怪我はない?」
 少女は呆然としていたが、やがて口を開いた。
「……怖いわよ……知らない人に連れ去られることほど怖いことは無いわよ! あなたいったい誰なの……どうしてこんなことするの⁉︎」
「僕はチェイス・モータル。どうしてもツアーを中止させたくて……だって、突然知らない人間が大勢入ってきたら嫌でしょう? それに……どうしても君のようなしっかりした子が必要だったんだ」
 チェイスは少女の目線に会わせてしゃがみ込み、しっかりと顔を見つめて言った。
「君には……僕の『召使い』になって欲しいんだ。僕と『友達』になってくれそうな子の情報を集めて、ここに連れてきて欲しい。僕一人じゃ限界があるんだ」
「……え? ちょ……え? 何、言って……」
 その時、少女はチェイスの牙に気がついた。ひっ、と息を呑んで後ずさり、必死にドアノブを回す。
「開けてよ‼︎ 私はあんたの召使いになんか絶対ならない! お母さんのところに帰して!」
「もう帰れないよ。君のお母さんの記憶、いじって変えちゃったもの」
「……え」
「君のお母さん、もう自分には娘がいないってことになってるから、たぶん今頃は君を置いてここから出て行ってるよ」
「え、ど、どういうこと……そ、そんなの嘘! 私を脅かしたって無駄よ!」
 チェイスは少女を連れてエントランスまで戻った。大階段の上から見下ろすと、先程まで人で溢れていたはずの一階がしんと静まり返っている。少女が突然消えたため、ツアーが中断されたのだ。
「な、なにこれ……お母さんたちは? ねぇ、お母さんたちはどこよ‼︎」
 もはや悲鳴にも近い声で少女は問う。チェイスは暗い目で笑い、杖を床に打ちつけた。
「これで君も、前の僕と同じだね……分かったでしょう? 独りがどんなに寂しいか。大事な人を覚えていても会えないのが、どんなに悲しいか。大丈夫だよ。君はもうこれから独りじゃなくなる。僕の召使いとして、ここにいることで独りじゃなくなる。「友達」を増やすために、一緒に頑張ろう。これからよろしくね、イヴリーン」
 イヴリーンは声もなく立ち尽くしていた。その姿が、だんだんと変貌を遂げる。小さく縮んだ身体に黒い大きな羽が生え、きらきらと鱗粉を撒きながら飛び回る。黒い蝶は逃げようとしたが、魔法で無理やり引き寄せられ、チェイスの指に乗せられた。
「逃げないでよ……次にまた逃げようとしたら、お菓子に変えて食べるからね」
 低い声が囁く。イヴリーンは震えながら頷いた。

 少女たちだけでなく、少女たちを捜しに行った大人たちも、何人か戻って来なくなった。さらに町おこしとして開催されたミステリーツアーの中止が決まったことで、町はますます活気を失っていった。
 町に残された手がかりは、飴のように甘い香りだけ。人々は姿の見えない人攫いを「飴売り」と呼んで恐れ、子供たちから目を離さぬよう心がけたり、どうしても見守れない時は信頼できる大人に子供たちを預けたりして「飴売り」への対策を強めた。それでも、いつの間にか子供が次々に消えていた。人々は半ば諦めていた。
 人の失踪が五十年間続く町の噂はフランスの首都、パリにも流れてきた。パリの新聞社も失踪事件の情報を集め始め、固唾を呑んで見守っていたが、特に目を見張るような大きな進展は無かった。

 そして、今日もまた、ヴァン・フルールで少女が消えた。

             〈第1話につづく〉

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