丹下先生はどのような思いでピースセンターのマスタープランを描いたのか
初稿2009.01.09
丹下先生は19450806とほぼ時を同じくして両親をなくしています。
父親は病気で母親は空襲です。大東亜記念造営で大政翼賛体制下で華々しくデビューした
若き建築家も敗戦と両親との死別のなかで戦争の無慈悲さ無力感を感じていたようです。
そんな彼は広島に特別な思いを抱いていました。1946年中央政府から各都市の復興計画の策定のため復興院の嘱託として若手建築家が派遣される段になり丹下先生は真っ先に広島担当に名乗りでられました。まだ、行くだけで原爆症になる