丹下先生はどのような思いでピースセンターのマスタープランを描いたのか

初稿2009.01.09

丹下先生は19450806とほぼ時を同じくして両親をなくしています。
父親は病気で母親は空襲です。大東亜記念造営で大政翼賛体制下で華々しくデビューした
若き建築家も敗戦と両親との死別のなかで戦争の無慈悲さ無力感を感じていたようです。
そんな彼は広島に特別な思いを抱いていました。1946年中央政府から各都市の復興計画の策定のため復興院の嘱託として若手建築家が派遣される段になり丹下先生は真っ先に広島担当に名乗りでられました。まだ、行くだけで原爆症になるというデマが飛び交っていた時代です。その中で「楽しかった高校時代を送った土地であり父母を同時に失ったそのときに大難を受けた土地」という理由で「なにか大いなる因縁」を感じた丹下先生は広島の復興の図面を描き始めます。

丹下先生は焼失による絶対的な資料不足の中商工会議所の資料やチラシなどから一軒一軒商店を地図にプロットするなど地道な作業を重ね、広島をかつてと同じ山陽地方の中枢都市として復興するよう道路計画及び土地利用計画を策定していきます。1947年に広島市復興計画審議会でこの案は丹下先生の説明に基づき検討され、そのなかのいくつかの案については実際に採用されましたが、否決された部分も多かったようです。しかし、この中で丹下先生は圧倒的な情報収集により広島市の未来像をただ一人描けていたと断言できるでしょう。

その中で、平和記念聖堂コンペのあとに、ピースセンターのコンペで一等を取るわけですが大東亜記念造営から平和記念聖堂にいたるいわゆる広場的なスケール感から一気に都市軸を描く鳥瞰的なスケール感を操るマスターアーキテクトへ脱皮をしたそのターニングポイントがこのピースセンターの都市計画なのです。

このピースセンター計画の中で丹下先生は「慰霊」よりも「未来的な平和の祈念」を志向する文章を寄せています。丹下先生は明らかに「静かな慰霊の場所」だけでなくもっと先を見据えた都市の復興に即した新しい平和祈念の場所を提案しています。相生通りの北側、軍需施設のならんでいた一帯をスポーツと子供のための施設の場所としたのはその思いの表れでしょう。結局相生通りの北の計画は実現されず、平和公園だけに丹下先生の線は残されたわけです。

この丹下先生の北側計画を復活させたいという気持ちも解らないわけではありません。この復活の思いが跡地コンペの審査員たちを公園重視の方向へ導いたのではないかと、そんな推測もできます。しかしその理解に関しては市の一貫した姿勢は「祈りの場としての公園の拡大」とし公園を「聖域」とみる方向性と感じます。

2004年4月28日の中国新聞の記事です

現状 「聖域」意識しすぎ?
広島市中区の平和記念公園から元安川を挟んだ対岸に夜、柔らかな光が点々とともる。
「灯和(とわ)の径(みち)」の名が付く。
「園内触るな」
市のミレニアム事業の一つで、約一億円かけて二〇〇一年に完成した。原爆ドームから平和大通りにかけて、魅力ある夜の景観をつくり出し、都心の回遊性を高める―という趣旨で、観光担当が手がけた。
アイデア公募で、審査員の圧倒的な支持を得たのは、ドームを起点に平和大通りまでの河岸に静穏な光を並べる案。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世ら世界の著名人が原爆資料館に残したメッセージを浮かび上がらせる。読みながらゆっくり歩ける仕掛けだった。
しかし公園を管理する緑化推進部は、「公園内を触るなどもってのほか」と、公園の敷地にあたるドームから元安橋のエリアは除外。資料館は平和推進部の所管で、メッセージの活用も立ち消えとなった。結局、光が呼吸しているようなイメージだけが、元安橋以南で採用された。

定まらぬ理念
「原案は非常に印象的だった」と審査にあたった広島市立大芸術学部長の大井健次さん(58)。
「平和大通りの将来像も含め、公園の理念が定まらないままでの提案だったから、気の毒な面もあった」。
市の所管が三つにまたがり、その思いも統一性を欠く現実と、表現者の思いにはギャップがあった。
芝生広場の開放も含め公園の活用にブレーキをかける緑化推進部。論拠を、公園を設計した
丹下健三さん(90)の精神に求める。「祈りの場は聖域。厳粛であるべきだ」との考え方だ。
しかし専門家の多くは、「丹下さんの本意は違う」とみる。
広島国際大教授の石丸紀興さん(63)=都市計画=によると、平和記念公園は当初、
「大きな普通の公園」として構想された。一九四九年に広島平和記念都市建設法が制定され、
平和記念施設だと国の補助率が三分の二と高いことから、「記念」の性格が強まった。
この時のコンペで一位となった丹下さんは当時、建築雑誌にこんな文を寄せている。「平和を観念的に記念するものでなく、平和を創(つく)り出す建設的な意味が必要。施設は、平和を創り出すための工場でありたい」
東京大教授の藤森照信さん(57)=建築史=は丹下さんとの共著「丹下健三」に、「慰霊を強調することへの躊躇(ちゅうちょ)があった」と書く。

開放イメージ
「全体のプランも視覚的に閉じていないし、自由に歩き回れる開放のイメージ。芝生広場だって『国民広場』と呼んだぐらいだから」。丹下さんの「慰霊より未来の平和」志向を代弁する。
石丸さんも、今の公園は「『聖域』を意識しすぎた過剰整備」とみる。「今の広島で、外国人が慰霊だけ感じて帰るのは、巨像の耳だけ見るようなもの。記念、日常、面白さがほどほどに混じりあう場が自然だ」と、市の見解に批判的だ。
2004.4.28
今回の広島市の市民球場跡地案の経緯と似通ったところを感じないでしょうか。
慰霊の想いが建築家のオリジナルの思いを凌駕して一人歩きしていると感じないでしょうか。

慰霊の静かなる想いと未来への平和の祈念は同じように見えて、すこしずつずれがあります。
平和公園の慰霊碑は当初アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチの手となるはずでした。しかし、それが
土壇場で日本人の手によるべきだという意見で覆されます。グローバルな「平和祈念」ならアメリカ人でも
いい、しかし「慰霊」であれば話は違う、それが最終的な結論でした。
その決定には私も異論はありません。しかし、その思いのなかで完成し、これまでの歩みの中で静かな
慰霊と祈りの場となった平和公園に対し、相生通りの北側も、同じ精神地盤の公園とすることが果たして
今の時代、これからの時代にマッチするものなのでしょうか。

丹下先生が思いをこめて線を引いた時代と今の時代はいろいろな意味で違っています。2大大国によるイデオロギー対立の時代から多くの多角的な火種を抱えた時代へ、0からスタートし復興特需にわいた時代から先行きの見えない金融不況の時代へ、「モダニズム」発展成長主義が最ももてはやされた時代からECO・LOHASの環境重視の時代へ、様々な位相で時代はシフトしています。

きっとこの時代にあって、丹下先生の案をそのまま再現しようとする、そんな動きを丹下先生が知ったら、逆に叱責されるのではないか、そんな風に感じさえします。あのとき、丹下先生が考えた未来志向の平和祈念の場を、我々は現代の広島に置き換えて新しい未来志向の定義づけをこの計画にこめなければいけないのでは?そのなかでやっぱり例えば子供が楽しめる場所とか、争いを忘れて健全に汗をかけるスポーツの場とか、みんなで集える音楽や演劇の場とか、不変のテーマを踏襲しながら、なにか新しい「軸線」を描けるそういう計画にすることが、丹下先生に対するオマージュではないかと考えます。

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