作文
久方ぶりの投稿となる。新型コロナ騒ぎはまだ収束していないが、それでも季節が廻り、春を迎えた中で人々の表情は少し明るくなった気もする。もちろん油断は禁物だが、ワクチンの接種も始まり、漸くこの見えぬ敵との戦いに勝つ可能性を手に入れた人類が、徐々に自信をつけてきたということだろう。
私の会社も、大半の企業がそうであるように、年度末を迎えている。まずは決算、足元の資金繰りに常にもましてプレッシャーがかかる月である。サラリーマン時代にはほとんど関心のなかった予算達成状況、決算といった数値が今は頭を悩ませている。「やれやれ」と独り言が増える時期でもある。
去年の秋くらいから小説を書き始めた。何とか年内に書き上げ、今はゆっくりと推敲し改訂している。これを本にして母に届けるのが今の私のささやかな夢だ。小学生の頃、「修ちゃんは作文が上手じゃけえ」と嬉しそうに言ってくれた母の言葉が私の心の底にある。以来、どんな些細な文章、学校の論文でも社会人としての企画書でも、私は誰にも負けない気概で書いてきた。「サラリーマンとは書くことと見つけたり」と勝手に思いこみ、とにかく業務文章を書きこなしてきた。そんな私が書く小説だから、やはり自身の経験に基づく、同世代のサラリーマンが登場するストーリーとなった。テーマは家族と友人。結局は実体験の延長線からは出れないのが今の私の限界なのであろう。
でも、それでもちっとも構わない。私の小説は、母が「作文が上手じゃねえ」と目を細めてくれるために綴るものだから。
【2021(令和3)年3月13日】
先代ワンコのチェリーが亡くなって一年が経ちます。後ろ脚が萎え、歩けなくなくなった彼女を腕に抱き、大好きな花桃の丘を歩きました。花が満開を迎える頃に息を引きとりました。
私は感情が上手くコントロールできなくなり、その日以来視界はモノクロに変わりました。誰と話すのも億劫になり、出歩く事も減り、柴ワンコを見ると動悸が始まってしゃがみ込んでしまいます。もともと心が弱いんですね。 半年ほど経った初秋の朝、全く偶然に、一匹の仔犬に出逢います。ペットショップのサークルの中で小さく震える姿が、赤ちゃんの頃のチェリーにびっくりするくらい似ている赤柴の女の子。呆然として立ちすくむ私に店員さんが「抱っこしますか?」と声をかけてくれます。私は慌てて逃げるようにその場を離れました。
それ以降も、家族に内緒で何度も何度もペットショップに足を運びました。【家族が決まりました】飼主が決まった仔犬のケージにはこのスティッカーが貼られてゆきます。隣のミニチュアダックスも、後から来たトイプードルも家族が決まったようです。「明るくて人懐っこい子なんですけど、まだご縁が無くて」店員さんの声も少し寂しそうでした。
悩み続ける私の背中を、夢の中のチェリーが押します。【あの子はパパの家族になりたがってるよ。連れ帰ってあげて」話を聞いた息子達も、「オヤジのためだけじゃない。うちで育てよう。家族として」と見たことの無いくらい真面目な表情で言います。私はその真剣な眼差しがおかしくて、吹き出してしまいました。笑いがやまず、やがて涙が溢れます。チェリーがいたら、涙を拭いて(舐めて)くれたのに、そう思うともう嗚咽は止まらなくなりました。
こうして、私は、小夏との物語を始める決心をしました。
3月で小夏は月齢8か月になりました。チェリーと同じく小柄で、体重は5.3キロ。すごい食欲なのでもう少し大きくなるかもしれません。
今年も花桃がきれいです。小夏も嬉しそうに鼻を動かして、春のにおいを嗅いでいます。春霞の空の下、私は大きく深呼吸をします。「ありがとう」と、年甲斐もなく叫びたい気分です。
【2021(令和3)年3月19日】
事務所を移転しました。虎ノ門から麹町に、地下鉄の駅で二つ程離れた場所に移りました。去年完成した22階建てビルの20階にいます。迎賓館や国立競技場、晴れた日にはその向こうに富士山も見えます。とても快適なオフィスです。
私の東京での第一歩は、ここ麹町から始まりました。今から42年も前の話です。18歳の私が受験で上京下見際に逗留したのが麹町会館でした。2大学5学部を受ける行程で、2週間程度滞在しました。もちろん、初めての一人旅で、初めてのホテル生活でした。というよりも、そもそも東京に行くこと自体が人生で2度目でしたね。スマホや地図アプリがある時代ではありません。本屋で買った地図と地下鉄路線図を頼りに、何とかホテルに辿りつき、部屋に入ったとたんに、不安と寂しさで体が震えました。クレジットカードも電子マネーもなく、母さんからもらった現金の入った財布を握りしめ、とにかく受験会場に行く以外は外出すまい、と決心したものです。
食堂で朝定食を食べ、部屋に戻り勉強をしていると、トントンと扉をノックする音が聞こえます。驚いて、返事をすると「ハウスキーピングです。」との女性の声がかえってきました。ハウスキーピング?そんな単語はまだ知らなかった私は、用心深く扉の小窓から廊下の女性を見つめ、チェーンをかけたドアを少し開けてみます。「なんでしょう?」優しそうな顔の制服を着た女性スタッフは「お部屋のお掃除とシーツとタオルの交換をします。15分くらいで終わりますよ」と言いました。そうか、たしかにそれは必要なことだなと納得し、それではお願いします、と答え、リュックに参考書を入れて外にでました。女性は「ロビーでコーヒーも無料で飲めますし、勉強できる机もありますよ。」と教えてくれました。
一階のロビーには私と同じような受験生が数名いました。飲み物無料と書いてある看板のあるカウンターでココアをたのみました。当時の私はまだコーヒーが苦手で、ミルクたっぷりのココアか砂糖を入れた紅茶くらいしか飲めなかったです。その日は日差しの暖かい小春日和で、窓側のテーブルだと汗ばむ陽気でした。
少し体を動かしたかたったので、一旦部屋に戻り、コートを羽織って外に出る事にしました。
紀尾井町という地名は、江戸時代に紀伊、尾張、井伊の藩邸があった事で名付けられたそうです。上智大学や文藝春秋の社屋、ニューオータニや赤坂プリンスも近くにあります。大久保利通が襲撃された清水台公園も近くです。
こうして、毎日のルームメイクの時間に、宿舎の周りを散策するのが私のルーティンになりました。気が向くと、赤坂見附や虎ノ門、表参道まで歩きました。なにしろバリバリのお上りさんです。見るものすべてが珍しく、通行人の会話にすら「標準語じゃのお」と感動したものです。故郷を出て、この街でひとり暮らすということに興奮し、それが強い動機となって自分に鞭打つように勉強しました。2週間の滞在のうち、私の行動半径もだいぶ広がりました。徒歩圏だけでなく、地下鉄を乗り継いで銀座や渋谷にも行ってみました。東京の街はどこも色彩豊かで、その比較においての故郷は、まるで水墨画のようだな、なんて感じたものです。
受験期間中、もちろんプレッシャーも緊張もありました。それでも東京へのあこがれと、それを実現することへの高揚の方がずっと強く、「俺は絶対この街に棲む」との一念で過ごしたんですよ。
無事受験が終わり、第一希望の大学学部の発表は高校の卒業式の当日でした。卒業証書を受け取り、母さんと一緒に学校を出て駅に向かおうとした時、校舎から担任のY先生跳ねるように走ってきました。「古田、受かった。合格やぞ!たった今お父さんから電話があった。やったぞ」
私は顎を引き、周囲の目を気にしながらも、体が震えるのがわかりました。先生の笑顔と、その場にしゃがみ込む母さんの姿を今でも思い出します。
不思議なもので、その夜から急に不安になりました。本当に自分が東京でひとり生きて行けるのか、父さんと母さんは大丈夫なのか。怖くなり、後悔にも似た寂しさが体の奥深くからじわじわと広がってきました。「本当にこの選択でいいのいだろうか」と運命的な質問に、自信持って答えられない気がしてきました。
まだまだ子供だったんですね。怖かったんでしょう、これから歩む世界が。未知の未来に急速におびえ始めたわけです。
あれから40年以上経ちます。建物も街もずいぶん変わりました。もたろん私も変わりました。何しろ、今や還暦を過ぎた立派な老人ですから。