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優しい人は易しい。

「優しい人」という言葉には、否定的な意味があると思います。言葉自体はポジティブなのですが、誰かを「優しい人」と呼ぶ事はその人に興味がないと言っているような気がするのです。
例えば魅力的な女性に、どうでもいい男性の印象を尋ねると「優しい人」と言うことがあります。「あの人は優しい」と言っていれば、好きとも嫌いとも言わなくてすむ便利な言葉なので、「とりあえず言っておこう」という感覚で使われることが多いと思います。これは様々な状況で「優しい人」が使われているニュアンスだと思います。

勿論、その言葉通りに人を称賛することもあります。ただ、敬われるようなエライ人にとって「優しい」という特徴はほんの一部分にすぎないのです。直接本人に「ほんとうに○○さんは優しいですね」などというお世辞を口に出すような人間がいたとしたら墓穴を掘るでしょう。想像してみてください。務めている会社の社長に、社員が「社長はお優しいですね」などという台詞を言う場面がありますか?
客観的にみて、陳腐なお世辞以下のものです。会話の流れ上、例えば、社長が溺れている子犬を助けたという話をしていたら、それを言うことはあるかもしれません。その他にあるとしたら、いつも厳しい社長が、「優しい人」と言われたいというタイミングで空気を読んで初めて口にする言葉なのです。
言われると喜ぶ言葉のはずですが、直接「優しい」と言われるとどこか馬鹿にされているようにも聞こえるのです。
では、誰かが誰かのことを「優しい人である」と口に出す場面はどこかというと、うわさ話や陰口などです。間接的に誰かをレッテル貼りするときです。その時の「優しい人」の意味は「いてもいなくてもいい人」と同じ扱いではないかと僕は思います。
「優しい人」とは幅の広い意味を持った言葉です。「親切」、「気遣いができる」、「思いやりがある」といった、正統派の「優しい人」をまず思い浮かべます。
しかしながら、こういう人は陰口でも「優しい人」とは呼ばれません。言葉でその人を定義しなくても皆わかっていますし、単なる「優しい人」と呼ぶにはどこか抵抗があるのです。それだけでは足りないと言った方が正しいかもしれません。そういう人は、どちらかというと「できる人」と呼ばれているでしょう。
逆に「バカ」は「優しい人」と呼ばれます。学生時代に遡って、冴えない先生を思い浮かべてください。授業中に生徒が騒いでいても注意しない先生。生徒の顔色ばかりうかがっている先生。これは「優しい人」です。そう呼ぶことで、学生は「無能」という意味をこめているのです。特に中学生ぐらいの年代の少年少女は大人を舐めるものですから「優しい先生」は「バカ」と同じです。彼ら彼女らが言うところの「あんな大人だけにはなりたくないなぁ」というのが「優しい人」いいえ、「易しい人」と書くのが正しいかもしれません。もしも「優しい先生」と呼ばれて本当に喜んでいる教師がいたとしたら転職したほうがいいでしょう。これはほとんどの場合、尊敬に値しないどうでもいい人というレベルを超えています。「優しい人」という言葉がメタファーにもなっていないのです。「ゴミ教師」と発言すると自分の口が汚れているように感じるので、うわさ話ですら「優しい人」と言って、穢れから自分を守るために言う言葉です。
大袈裟すぎるでしょうか?でも、僕はそう思うのです。誰かを「優しい人」と烙印を押すとき、僕はその人を馬鹿にしています。そして、経験上、ほかの人も似たような使い方をしています。
もっとわかりやすい「優しい人」の使い方の例があります。それは「優しい人なのだけどね」と逆説の接続詞がつく場合です。主にウザイ奴の陰口をいう時に使います。露骨に悪口を言いたくない、「私は悪口を言っているわけじゃないですよ!」と他人にアピールするときに使うことがほとんどではないでしょうか。
「優しい人」と口に出して人のうわさ話をする時は、自分を嫌な奴だと思いたくないのです。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!