マルロー

しみったれマルロー

苦しみは変わらない。
変わるのは希望だけだ。

誰かが図書室の本に赤線を引いていた。
当時大学生の僕は驚いた。
というのも、その言葉を見つけるために、僕はその本を読んでいたからだ。
僕は線を引いた人がどういう意図でそうしたのか気になった。
もしかしたら、僕に見てほしくてそうしたのだろうかと思ったものだ。

マルローの「侮蔑の時」だ。
僕は寺山修司の「ポケットに名言を」からその言葉を知ってマルローの作品を読みたくなったのだ。

恥ずかしい事に、マルローのその小説の内容をはっきりと覚えていない。
牢獄の中の話だという記憶しかない。

内容よりも、この本を読むために苦労した事の方が印象深い。なぜなら、どこの書店にも売っていなくて、聞いたら絶版だとのこと。
蔵書が自慢の大学の図書室にも足を運んだが見当たらない。15年ほど前の当時でも、パソコンで蔵書の管理をしていた筈なのに検索してもでてこなかった。
それでも諦めず、司書の人に頼んで地下の書庫に入れてもらった。古い翻訳本がびっしり詰まっている書棚が大都市のビル群のように並んでいた。通っていた大学はそういう学部しかないから海外の文芸作品の蔵書が多いのだ。
それだけに、「侮蔑の時」がない事を、僕は訝しく思った。
無理を言った手前、探す努力はしなければならない。正直言って、蔵書の数に面食らったのだ。ないはずの本なので、適当に探すふりをして諦めようと思ったのだ。

だが、ちょっとした奇跡のような出来事なのだが、すぐに見つかった。
「ありますやん」と生意気な事を、司書の人に言った記憶がある。
誰の手に、とられることもなく、長い時間を書棚ですごした本。
そのはずなのに、ボロボロだった。明らかに読み込んだ本。
記憶が曖昧だが、分類ラベルが貼っていなかったのかもしれない。

僕は大学が購入したものではないと思った。それは赤線を見つけて確信した。どういう経緯があったのか知らないが、赤線を引いた人物が書庫に置いていったのではないだろうか?
そうだとしたら、その人は何を思って「侮蔑の時」をこっそりと書庫に置いたのか?
卒論でマルローの事を書いた後、後輩の為にそっと置いていったのか?
それとも、次にこの本を読んだ人に「希望を見つけろ」という呪いをかけたのだろうか?

フランス文学を専攻していなかったから、マルローについて知っているのはこの本ぐらい。当然、卒論は別のテーマ。
けれども、小説の内容は忘れても、僕はこの言葉を今でもおぼえている。

そもそも、この言葉に惹かれたのは理由がある。
端的にいうと、僕は苦しいという感情に鈍感なのだ。
だから、苦しさとは何かという事を、知っておく必要があると、僕は思ったのだ。

苦しいと言う人の気持ちが正確にわからない。

それでも、僕も苦しいと感じる事はある。
ただ、肉体的に感じる苦しさの事に限定される。昔はスポーツをしていた。きつい練習の時は苦しかった。そういう苦しさは理解できる。

けれども、生きるのが苦しいとか、そんなニュアンスの苦しさは感じにくい。
おそらく、僕は恵まれている環境で過ごしてきたし、今も不自由のない生活をしているからだろう。
今のところ食べるに困らないし、寝る場所もある。それだけで十分だ。

なによりも、僕は自分の能力と見合わない夢をみても絶望しないのだ。

場合によっては、それは無責任な態度だと周りから受け取られる。
短期的に実現できない事も、できると言うからだ。
だから、期間の話はしないようにしている。与太話だと勝手に思ってればいい。
そういう面について、僕は人と違う感覚を持っていると自覚している。
そのことに気がついたからこそ、苦しさというものを理解したかった。

だが、マルローは面白くなかった。苦しさ云々どころじゃない。
赤線を見つけた時点で、僕の脳内のエンドルフィンのダムは決壊してセルフハイになったのだ。
だから内容が入ってこなかったのかもしれない。

苦しさは変わらない。
変わるのは希望だけだ。

どんな状況にいたとしても、希望を見つける事だ。
僕の場合は、

苦しさはわからない。
わかるのは希望だけだ。


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