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うめき(紀伊国屋書店梅田本店)での一コマ

 本屋で、裏表紙に記載している値段を見て棚にもどす。何も買う気にならなくなったので、少し早いけれども、店の外の彼女が指定した待ち合わせの大きなモニター前に向かう。
 陳列している棚の間を歩いていると、知っている名前を見つけた。平積みされた新刊売り場の角の二面に、その本が並べられている。しばらくその装丁を眺めて「あぁ」と心の中で呟いた。すぐにわかったわけではない。忘却の屑籠の中にある、小さな紙きれを広げて、ようやく思い出したという感じだ。その名前は中学校の同級生で、当時から小説を書いていたらしい。らしいというのは、僕と彼はそれ程親しくなかったので、中学時代に彼が何かを書いていたという事を知らなかった。しかしながら、人づてに聞くまでもなく、彼が小説家になって活躍しているのは、何年も前から知っている。それで、何かのきっかけで中学生の頃から書いていた事を知った。
「高いなぁ」そう呟いてから、僕は彼の名前を指でなぞって元の場所に戻す。他に買う物があったからでもなければ、お金に余裕がないという事でもない。値段を見たら買う気が失せた。同級生の書いた本であっても、いや、そうだからこそ、そうしたいという気持ちが湧いてこない。僕はその本の事を忘れたふりをして、歩き出した。
 本屋を出てすぐの待ち合わせの場所に人が集まっている。少し離れたところに、目立つ看板を持ったスタッフが立っていた。「最後尾」という文字が読める。どうやら、サイン会のようだ。有名人が書店の前でサイン会をするという事は珍しい事ではないのだろうが、目の当たりにすると、複雑な心境になる。サインをしているのは、僕よりも年上の女性で、三十歳ぐらいだろうか。いかにもといった芸能人ではなく、いわゆる地味な印象を受ける。その印象とは裏腹に、彼女の書いた本を手にした人達が、長い列を作っている。彼等の年齢層はバラバラで、有名人のサイン会に来たというよりも義務感で並んでいて、どこかよそよそしい雰囲気を僕は感じ取った。そして、立て続けに最後尾に人が並び、列は一向に短くならない。スタッフに聞くと、人数を制限しているわけでもなく、しばらくはこの状態が続くらしい。「まいったな」と僕は呟いた。待ち合わせ場所にしては不都合だと思ったからだ。仕方がないので携帯電話を取り出して「待ち合わせ場所変更。本屋の新刊コーナー」というメッセージとサイン会の様子を撮影した画像を彼女に送る。
 店内で待ち合わせというのも迷惑かも知れなかったが、なんとなく同級生の本が買われていく様子が見たいと僕は思った。しばらくして返事が戻ってくる。彼女から送られてきたメッセージは「本屋の新刊コーナーってどこやったっけ?」だった。確かに分かりにくい場所ではあると思いながらも、店内を撮影する気になれなかったので「今、どのへん?」と返す。今度はすぐに返事が戻ってきて「真ん中ぐらい」だそうだ。真ん中と言われて辺りを見回すが、彼女の姿は見えない。
「本屋?」とメッセージを送る。数秒後「本屋」というメッセージが返ってきた。僕は辺りを見回す。しかし、それらしき人物は見当たらない。「本屋の真ん中なん?」と返事を送った。しばらくすると「真ん中」という返事が届く。「ごめん。真ん中ってどこやねん?」とメッセージを送ると「だから真ん中ぐらいやって」という返事が届く。本屋の中で待ち合わせをするのが、そもそも間違いだったようだ。僕は諦めて「やっぱりモニター前で待ち合わせにしよ」と送信してから携帯電話をポケットにしまう。すると、新刊コーナーで、同級生の本を手に取る女性がいた。少し驚いたのは、その女性が平積みされた本を目で追って、周りをきょろきょろと見渡したからだ。まるで誰かを探しているような仕草に思えた。彼女は一冊手にとると、ページをめくる訳でもなく、次から次へと本を手に取る。しばらくその様子を見ていた僕は、もしかして彼女が平積みの本を全て買うのではないかと想像して「すごいな」と小さく呟いた。しかしながら、別の事が頭に思い浮かんだ。この女性は出版社の人間ではないかという事。立地条件の良いこの書店で、一日に何十冊も売れた実績がでれば、他の本屋も仕入れを増やすのではないかという考え。書店のランキング棚に、宗教団体が運営している出版社の本ばかりが上位になっている事がよくある。そういうのを見るとサクラではないかと疑ってしまう。しかし、僕がいくら不自然に感じようが、この女性が出版社の関係者であろうとなかろうと、僕には関係のない事だ。「外に出るわ」と携帯電話を取り出してメッセージを送る。するとすぐに返信があった。「了解」という文字を見た後、振り返って新刊の平台を見ると、同級生の本はなくなっていた。女性の姿もない。
 外に出て彼女を探すと、彼女はサイン会の列に並んでいた。僕はそれを遠くから眺める。彼女は自分の番がくると、スタッフに購入したばかりの本を手渡している。真ん中と言うのは列の真ん中だったのかと、僕は独り言ちた。しばらくして、彼女はスタッフと一言二言話をした後、僕の方に近づいてくる。「ごめん待った?」と彼女が言ったので「別にええよ」と答えると、彼女はほっとしたような顔をして僕を見る。何となく悪いことをしたわけではないのに謝罪されているのではないかと錯覚する程の表情だ。「どうしたん?」と僕は尋ねる。
「何が?」と彼女が答える。
「なんか、謝っとるから」と僕が言うと彼女は不思議そうな顔をした後で、思い出したかのように「あぁ」と口にした。
「急にここで本を買うように頼まれてん」彼女はそう言ってから「せやから、悪いなって」と言葉を続ける。僕はその言葉を聞き、彼女の表情を改めて見た。そして、彼女が僕を待ち合わせの場所をここにした理由がわかった。
 少し歩いたところにある喫茶店に入った僕達は席に着く。僕はコーヒーを口に運びながら店内を見渡すと、殆どの席に客が座っていて、賑わっている。
「ここのコーヒー高いなぁ」と彼女が言ったので「そうやった?」と僕は彼女に尋ねた。サイン会の事を話題にする訳でもなく、唐突に彼女がそう言ったので、僕はメニューを改めて見るが、驚くほど高いわけではない。
「サイン会に並んどる人って、ほとんど出版社の関係者やって知っとった?」彼女の表情を見るが何も読み取れない。
「そうなん?」僕としては、同級生の本が目の前で何冊も買われている事が頭に浮かんだ。サイン会にしても、仕込みが必要なのかと思いながら、確認する事にした。「ほな、自分は誰に頼まれて並んどったん?」と僕が聞くと彼女は僕の顔をじっと見た。
「えっ?」と彼女は聞き直す。僕はコーヒーをもう一口飲んでから「せやから、出版社の関係者に頼まれて並んどったんかなって」
「そうやけど」と彼女が言うので、僕は頭の中でいくつかの可能性が思い浮かぶが、どれも口にする程の確信を持てなかった。ただ彼女が少し怒った様子に見えるので、僕は何か悪い事を言ったのだろうかと不安になる。
「もしかして、怒っとる?」僕が尋ねると彼女は首を横に振る。
「えっ? 全然怒ってへんよ」そう言って顔を上げた彼女の表情には笑みが浮かんでいるのでほっとする。それから、今日の行き先などの話題で一頻り盛り上がってから、会計をする為にレジに向かった。現金で支払いをしようとすると、彼女が千円札を渡してきたので僕は「ええよ」と言うが「あかんて」と無理に渡してくる。仕方がないので受け取り支払いを済ませた。現金ではない方法で決済をすればよかったと、僕は後悔した。それで店の外に出ると「おつり」と言って、彼女にお金を渡そうとする。しかし、彼女は「いらんて」と言う。
「とっといて」と言いながら、僕は彼女にお金を差し出すと、彼女は渋々受け取った。「私が払うつもりやったんや」と不満を口にした彼女に対して、僕は何か言わなければならないと思う。けれども何も思い浮かばない。僕達は喫茶店を出て目的地に向かう為に歩き出したが、長い間無言のままだった。
「コーヒーの値段って見いへんの?」と彼女が口にしたので、僕は「何が?」と尋ねる。何度か来た事のある店だったので、確認する必要がなかった。
「いつも、値段見とるやん」彼女はそう口にするが、表情は変わらない。口調は穏やかだったが、僕は困惑する。値段を理由に、興味のあった本を棚に戻したことを思い出す。
「今日はたまたまや」と僕が言うと「そうなん」と彼女が言う。彼女が言いたい事は何なのかと考えてみるが、よくわからなかった。もしかすると、僕はケチだと思われているのかもしれない。
「物の価値って、欲しがる人の数で決まるんやろな」と彼女が口にする。彼女は空を見上げながら言った後で「どう思う?」と僕に尋ねた。何でこんな事を聞いてきたのかと少し考えるが、自信を持って答える事はできないので、素直に自分の気持ちを口に出す事にした。
「本は高いと思い、コーヒーはそうは思わへん。本は読んでみなわからんけど、コーヒーの味は知っとる。その差で金額を気にせぇへんねん」
「ほな価値ってなに?」と彼女が口にするので、僕は彼女に視線を向ける。「そら、人それぞれで違うやろ?  値段が高くても欲しいと思う人もおれば、安いのに要らんと思う人もおる」
「私は価値のある人間かな?」と彼女が言うので僕は思わず笑ってしまった。彼女は不機嫌そうに僕を睨むが怒っている訳ではない事は知っている。
「並んででも手に入れたいわ」と僕が笑いながら答えると「結構待つで」と彼女も笑って話す。それから思い出したように「あんな、物の価値は欲しがる人の数で決まるって話やけどね……」と言い始めたので僕は彼女の顔を見る。彼女の表情は真面目だった。
「物の価値って、想いの強さかな」言葉の意味はすぐには理解できなかったけれども、僕は頷いて「そうやな」と言って「本当に欲しいもんは値段で測る事はできへんな」と続けた。丁度その時に、同級生の本を何十冊も買っていった女性の姿が目に入った。紙袋に一杯の本を持って歩くのはしんどそう。
「どうしたん?」彼女が僕をじっと見た。「なんでもあらへん」僕はそう言って、彼女の手をとって歩きだす。彼女もすぐに手を握り返し、僕達は目的地に急いだ。

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