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Torn エレベーター3

「浴衣じゃないんだね」
 アキヨがそう言った。そういう彼女も浴衣を着ていなかった。浴衣ではなく、キャミソールを着ていた。そういえばそういう服が流行っていた事を俺は思い出した。忘れていたというよりも、わざわざ憶えていない事だった。今、目の前に彼女はいて、元の世界には彼女はいない。そんな事が不思議だった。
「そういう自分だって」
 俺はぎこちなく口を開いてそう言った。違和感しかなかった。高校生の俺が着ているのは、オーバーサイズ気味のバギーパンツだった。腰パンできるようなズボンしか俺は持っていなかった。靴はエアフォースワン。これはまだいい。抵抗なく履ける。しかし、Tシャツはピチピチだった。そういうのをピチTと呼んでいたのだった。
 俺はアキヨを前にして、何を話すべきなのかわからなかった。俺にとってみれば、アキヨはずっと前からいないような存在だった。それが、今、少女の姿で俺の目の前にいる。
「浴衣、着た方がよかった?」
 まだ高校一年生のアキヨは、なぜか照れながらそう言った。彼女は今にも咲きそうな蕾のようだった。それに、肌の匂いなのか、髪の匂いなのか、少女独特のココナッツのような甘い香りがした。それは、俺の頭を狂わせた。その匂いが、性的な衝動を思い起こす原因だと知っているのだが、本来の俺の年齢が自制を促している混乱だ。
「なんか、おかしいね」
「いや。そうでもない」
「なんか、大人みたい」
「えっ?」
「そんな訳ないか」
 俺はなぜか悲しくなってきた。目の前にいるアキヨが死んだというニュースが嘘であってほしかった。25年後には彼女は本当にいなくなる。それなのに、みんなそれを知らない。俺だっていつ死ぬのかわからない。死ぬ事がわからないほうが、自由に生きられるのかもしれない。そんな事を思った。
「花火が始まるまで何する?」
 待ち合わせしていたのは、駅前の本屋の前だった。俺はその事をよく憶えていた。記憶の中の俺はソワソワしてアキヨを待っていた。
 携帯電話が普及する1年か2年前の事で、当時の待ち合わせというのは、相手が来なかったら、確認の手段がなかった。今では――といっても、元の40歳の俺には、携帯電話やスマートフォンなしの待ち合わせは考えられなかった。俺は約束していた時間を憶えていなかったから、早い時間から駅で待っていた。待っている間、案外変わっていない駅前を観察していた。当然、道路を走る車や、看板やポスターは懐かしさを感じるようなものばかりだった。そういったものを見ると、本当に昔に戻ったのだと俺は実感していた。
「ねぇ? 聞いてる? やっぱりなんかおかしいよ」
「えっ?あぁ。そんな事ない。なぁ、とりあえず何か飲もう」
 そう言った俺の頭に思い浮かんだのはビールだった。しかし、すぐに俺の姿は高校生だと気がついた。しかもアキヨと初めてのデートだ。どこかでビールというのは、ちょっと高校生のアキヨには可哀そうだと思った。
「飲む? 何を?」
「いや、何となく喉乾かないか? カフェとか……」
「カフェ?」
 それにも違和感があった。カフェという言い方はいつから一般的になったのだろうか? 俺が高校生の頃にも、アメリカには、スターバックスなどあったのかもしれないが、俺は知らなかった。そういう言い方が一般的になるのは、数年後だっただろうか?
「まぁ、とりあえず、どっかで座ってから考えようって事だよ」
「あぁ。そうだね。それがいい」
 それで、俺達は赤と黄色の看板のハンバーガー屋に入った。『毎日なっ得バリュー』というポスターには、ハンバーガーが59円と書いてあった。やっぱり俺は昔に戻っている。そんなポスターを見て、改めて俺はそう思ったのだった。


つづく

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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!