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元院長は僕

「私は無罪です」

本当にやっていないのであれば、必ずそう訴えなければいけません。
しかしながら、罪の意識があるならば、それは、言ってはならない言葉です。謝罪の言葉を口にしながら、罰を受けないとは、言えるものではありません。

「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶しており、車に何らかの異常が起きたと思います。ただ、暴走を止められなかったことが悔やまれ、大変申し訳ありません」

それは、どういう事でしょうか?
自分は悪くないと言いたいのですよね?車が悪いという事ですよね?

ただ、自分が助かりたいと思う気持ちは僕は理解できます。

僕は再び自分を振り返る事にしました。

僕は過ちを犯したことがあります。故意でなくとも、そうであっても、何らかの間違いをした事はあります。

法に裁かれた事はありませんが、謝罪をした経験があります。

人を傷つけました。
自分の事だけを考えて、ズルした事も、人を殴った事もあります。人の心や体を傷つけたのです。

自分の罪を認める事は難しい事だと思いました。
とぼけてごまかしたり、言い逃れをしました。そして、「仕方なくやってしまった」と相手に同情を求めた事もあります。

罪の重さという事は重要ではありません。過ちに対しての姿勢という事において、僕と元院長は似ています。
もし、僕が再び間違いをしたら、今の僕も、逃げるかもしれません。

もう、誰も傷つけたくありません。
そんな醜い自分を見たくありません。
そう思っても、そうありたいと思って生きていても、僕は自分が怖いのです。否、醜くて狡い人間だと思われるのが怖いのです。

「僕は悪くない」

罪人が言う言葉の中でも、これほど、醜い言葉はありません。

しかしながら、僕がそうです。
過ちに向き合い続けることなどありません。

勝手に許されたと思って、のうのうと生きています。
過去という黒い絵の具に、罪の色を混ぜ合わせても、黒色になるのです。
そうして、なかった事にしようとするのです。

罪は人の本性です。

間違いは誰にでもあります。
しかしながら、間違いと罪は違います。

例えば、事故は間違いです。
しかしながら、事故を起こして、逃げると罪になります。

その差で、人の本性を評価されるのです。

僕は、逃げる方の人間です。
逃げて隠して、けれども、隠し通せない。

露見して、言い逃れして、それができなくなって、形だけ謝る。

僕は、そういう人間です。

正しさとは自分で決める事です。
僕は、再び言い逃れをする人間になってしまいそうで怖いのです。












一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!