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粗末な暮らし15

 小さな魚が避けて道を作り、その間をマンボウがゆっくりと泳いでいく。水槽の外は空が広がていたので、魚たちは、あたかも空を泳いでいるように見えた。二人が話していると、一人の老人が現れ、彼は入江田を見て微笑んだ。
「君がここに来たということは、そういうことなのだね」
粗末な暮らし14

老人の話し方には何かしらひっかかるものがあった。大事な事を教えてくれない口調で、入江田を困惑させようと目論んでいるようにも見える。入江田はどうしていいかわからず隣にいるアンバーに目をやると、彼女は何も言わずに水槽を眺めていた。
「どういう意味ですか?」入江田は慎重に言葉を選んで尋ねた。
「この子は君のパートナーになる子だよ」
「パートナー? それは一体何のことでしょうか?」
「この子と一緒なら抜け出せるだろう」
「抜け出す?」疑問形の言葉を放つも、入江田の意識に浮かんできたのは、ある種の確信だった。
「ああ。この子は君が望めば何でもしてくれる。この子を好きなようにしていいんだよ」
「あなたの言っていることがよくわからないのですけど」
「そうかい?  君は兵士だったのだろ? 私の言いたい事はわかるだろ?」
「しかし……」
「まだ時間はあるよ」
「ここはどこなんですか? あなたは何者なんだ?」
 入江田が尋ねても、老人は何も答えようとしなかった。彼には確かめたい事がある。しかしながら、老人はこの場を去ろうとしている、
 遠くで金属製のドアが開く音がして、ゴウゴウと風の音がした。水槽の中のマンボウが、踵を返すように反対方向に泳ぎ始め、老人は煙のように痕跡を残して姿を消失させた。アンバーは黙って聞いていたが、老人が離れていくと、入江田の腕を掴んで出口に向かって歩き始めた。
「ねぇ。佐吉は、私のことをどう思うの?」アンバーは入江田の顔を覗き込むようにして聞いた。
「さぁ」
「それだけ?」
「いや……ちょっと、不思議な感じがする」
「不思議って、どんなふうに?」
アンバーと入江田の目が合った時、彼は夢の中にいるのではないかと思った。彼の脳裏には、今まで経験してきた事が走馬灯のように浮かんでくると同時に、全てを打ち消したいという気持ちになっていた。何も言おうとしない入江田にしびれを切らしたのか、アンバーは彼の手を握り、自分の手と一緒にコートのポケットに入れた。

粗末な暮らし16

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!