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仙人はいた

[6899 文字]
1988年、今から32〜3年前、僕がまだ東京に住んでいた25歳の時。
姉がそろそろ臨月ということで、当時義兄の実家の信州大町に居た姉を、両親が広島から旅行がてら迎えに行くという計画を立てて、お前も東京から合流してはどうかと誘われ行った事があった。父が58歳くらいだったはずなので、現在の僕ぐらいである。母は当時51歳ぐらいだっただろう。僕は都内から車で大町に向かった。

せっかくここまで来たのだからと、地元在住の親戚のおばさんが黒部ダムなどを案内してくれるという。僕らは観光気分で気軽にそのお誘いに乗ることにした。
翌日の早朝その親戚のおばさんが僕らの滞在先まで車で迎えにやって来た。見ればちゃんとしたトレッキングの装備だ。ケーブルカーやトロリーバスに乗るのにその格好は不要の様に思えたが、きっと普段からそういう人なのだろうくらいに思っていた。

午前中は黒部ダム黒部平大観峰室堂平の壮観な景色、夏だというのに氷河が残る谷など、瀬戸内民族には大変刺激的な景色が堪能できた。昼食時に案内のおばさんは午後から立山に登る事を発表した。僕らは登山のつもりがなかったので観光気分の着の身着のままでやって来ている。父がこんな格好でも登れるものですか?と尋ねるとおばさんは子供でも登れる簡単なルートだと言った。母は大喜びであった。

天気に恵まれた。遠くにそびえる山々が絵画の様に迫って見える。その日午後からの天気は予報も含めて大変良好で、素人でも登山にはもってこいの様に思えたが、山の天気は急変して当たり前。気を抜いてはならないのだろうと皆で話し合った。
登山道を行き来する人は決して重装備ではない。多くの人が軽装でそれなりの恰好をしている人はほんの一部だった。ちょっと安心した。確かに最初の内は空を愛で、稜線を愛で、草原や池を愛で、花を愛で、ピクニック気分で歩けるらくちん登山だと思った。
40分ほど行くと標高2,550m辺りに祓堂(はらいどう)といわれる石積みの祠の様なものがある場所に到達する。ここは下界と神域の境界とされるのだとおばさんから説明を受けた。フーンと言って僕はそんなことなどさして気に留める事もなく、恐らく手を合わせる事もなく祓堂の前を素通りして行ったのだと思う。その報いがまさかこの後に待っているとは思いもよらなかった。道の具合もこの辺りから急に変化する。

しばらくすると母が頭痛がすると訴え始めた。案内のおばさんはもう少し行くと大きな山小屋があるのでそこで少し休むといいという。母は頭痛を押して更に登って行った。頭痛は益々酷くなり吐き気もすると訴えだした。おばさんのあとちょっと、もう少しの声で母は更に登って行った。
ようやく大きな山小屋が現れ、とりあえず母は小屋の長椅子で横になった。しかし10分経っても15分経っても良くならず、僕らはアタフタと母の周りで心配するばかりだ。そこへしっかり装備をして目深にハットをかぶり白い口ひげを蓄えた見知らぬお爺さんが現れ、母をのぞき込んで言った。「これは典型的な高山病だからここに居ても治らんぞ。とにかく下山させる事だ」と忠告をくれた。その真っ直ぐこちらを突き刺すような視線の目が妙に透き通って見え、普段疑い深い僕でももうそれだけですっかりその忠告を信じられた。山では時々仙人になりかけた様な人に出くわす事があるという冗談染みた話を聞いた事があったが、これがその人だったのかもしれない。「とにかく下山させることだ」と言うと目の透き通ったお爺さんはスゥーッとどこかに行って見えなくなってしまった。
とは言え調子の悪い母を一人で返す訳にはいかない。すると父とおばさんが付き添って下りると言う。じゃあ僕もここで止めようと言うとおばさんが何故か猛反対した。せっかくここまで来たのだからあと少し、山頂まで行って来るといい、と言う。父も、3人も4人も付き添う事はない、こちらは心配ないから行って来いというので、僕は一人で山頂を目指した。

僕は一人再び登山道に出た。そこから先の登山者の数はぐっと減っていた。皆あの山小屋で引き返したらしい。登山を続ける人は目立つ色のヤッケを着込み、帽子をかぶり、リュックを背負い、両手は空けているか杖を持っているかだ。靴も登山用と思われるごついのを履いていた。僕は青いTシャツにウインドブレーカー、白いチノパンにスニーカーという軽装だったのでなんか恥ずかしくなってきた。
進めば進むほど山道然とした険しさを増し、両手両足で四つん這いでないと進めない場所も出て来た。これはもうピクニックなんかではなく、紛れもない登山である。母らがあそこで引き返したのは正解だったなと思いつつとにかく淡々と足を進めた。この頃は既に景色を楽しむ余裕などなく、足元をしっかりと見つめただ一歩一歩歩みを進めるだけだったのだ。
比較的大きな岩がゴロゴロする急斜面を登りきるととうとう山頂が見え始めた。山頂には山小屋がありそこで一息入れる事が出来るが、小屋の中に入って3,000m級からの景色を拝まないなんてあり得ないと思い、そのまま小屋の横を進んで行く。するとまだその先に登る道があった。小屋の先に鳥居がある。鳥居の奥は岩を積んだような小山になっており、その頂上に祠があった。つまり本当の頂上はあそこなのだと思い、迷わず僕は鳥居をくぐりその岩場をよじ登って行った。鳥居から頂上までの高低差は約15m。ロッククライミングとまでは言わないが、手で岩をつかみしっかり支えながらでないと登れない最後の難関である。

やっと頂上に立った。ここまで終日天気に恵まれた。遠くの峰々が非現実的な群青色した空をバックに威風堂々とそびえている。どのくらいの時間だったか、僕はしばらくウットリとその景色に見とれていた。風は強い。何かをつかんでいないと3,000m下方に吹き飛ばされるような錯覚に陥る。どのくらいこの絶景に見とれていたのか、ふと我に帰り周りを見渡した。やって来る人はみなこの頂上に構える祠に手を合わすとざっと景色を見て降りていく。もったいないなと思った。その小さな祠の中を覗き込んでみたが、賽銭箱の他に何かがあったかどうか覚えてもいない。あとから来た人らもまた先ず皆この祠で手を合わせ無事の登頂を感謝してる様だった。すると遠くで誰かが叫ぶ声がした。何故か僕の名を呼ぶ声のように聞こえた。こんな場所でと思いながら鳥居の方を見ると父がこちらに向かって両手を振っている。岩場を指さし「これは無理だからそこまではいかんぞ!」と言っている。母と一緒に下山したんじゃなかったのか?母はどうなった?というのも気になり、その雄大な景色に後ろ髪惹かれつつ踵を返した。

ロッククライミングばりの登りと違い、下りは大きな岩から岩へ飛び移るようにして下りていった。これが間違いだったかもしれない。次に飛び移る岩を決めてひょいと飛び上がった。その時だった。左側から登って来た子供が不意にその岩へ覆いかぶさったのだ。このままだと子供の背中か頭を踏みつけてしまう。ぼくは咄嗟に隣の岩へと足を避けた。
その後その子や自分の体がどうなったのかは全く覚えていない。次に気付いた時僕は最下段の岩の上に座っていて、父が僕の首を絞めているという状況だった。父越しにそこから見えた景色も美しかったのを覚えている。父は「じっとしとけ!動くな、じっとしとけ」と目の前で大声でまくし立てている。何が何だかさっぱり分からずにいたが、次第にあご辺りに強力な鈍痛が襲ってきた。手でそのあごを触りその手を見ると血だらけになっている。なるほど、僕はこの岩場でコケてあごに何かしらの怪我をしたらしい。子供はと思い辺りを見渡しても子供の姿は見当たらない。そこに居た全員が遠巻きにこちらを見ている様子からきっと子供は無事だったのだろうと思った。父はまだ僕の首を絞めている。いったいなぜ父が今僕の首を絞めてるのかが分からなかった。周りにいた知らない人たちの何人かがタオルやティッシュをくれた。これで止血しろという事だろう。残念ながらティッシュなんかでは事足りる状況ではなさそうだ。
僕はようやくそのタオルをつかむと怪我をしているであろうあごの所を押さえて、首に回っていた父の手を振りほどいた。父は「血は止まったか!」と聞くのでひょっとして首を絞めていたのは止血のつもりだったのかと思い可笑しくなって笑った。それを見た父も少し安心したのか手を放し大きく息をついて後ろに深く座り込んだ。

どうやら僕は急傾斜の大岩の上を2転3転しながら10m以上滑落し、一時脳震盪で気を失っていたらしい。それを見ていた父が慌てて岩を駆け上り僕を座らせ出血してる箇所の首元辺りを止血の為とにかく押さえたのだっだ。着ていたウインドブレーカーは何故かビリビリに破れ、中に着ていた青いTシャツは前面がほぼ血で染まり黒っぽくなり、白いチノパンの股から右足の太もも前面も真っ赤に染まっている。どなたかに頂いた白いタオルはあっという間に血みどろになり、僕は出血しただろうと思われる血量を想像して少しクラッとした。タオルをもう1枚頂いていたのであらためてそれであごを押さえ、父と共にとにかく下山する事にした。すれ違う人すれ違う人たちが息を飲んでこちらをうかがっているのが分かる。下山途中で色々その後の父と母の話を聞いた。実はあの後母は結局歩く事もままならず、山小屋でそのまま横になっているという。母を案内のおばさんに任せて父は僕の後を追ってこの事故に遭遇したという。父はしきりに来てよかった、来て良かったと言った。

標高が下がるにつれて頭の中の霧が少しずつ晴れていく感じを覚えた。あの透き通る眼をした髭面のお爺さんが言っていた様に高山病はとにかく下山するしか治す方法はないというのが正しいのなら、ひょっとするとこの感じも一種の高山病だったのかも知れないと思った。じゃなきゃこんな怪我をするはずがないと自分なりに確信した。ただし霧が晴れて意識も晴れて来るが、晴れるほど痛みも増すのだった。
母が居る山小屋の所まで下山した。しかしこんな血みどろの姿を調子の悪い母に見せるわけにはいかないので、父に「どんなに抵抗されても標高の低い所へ下すようにね」と母の事をお願いし、自分は一足先に一人でトロリーバス、ロープウェー、ケーブルカー、トンネルバスと乗り継いでタクシーが捕まえられそうな扇沢駅まで下りる事にした。
夏の観光シーズン中で混雑する中、どの乗り物も超満員だったが僕の周りだけは人が寄り付かない。全身血みどろになっている僕に触れる人は全くいなかったが、中には大丈夫?と声をかけてくれたり、良かったらこのタオルも使ってと渡してくれる人も居た。僕は有難いとか恥ずかしいとか情けないという感情より、その頃はもうとにかく強力な痛みと闘っていて、人がどう思おうがそんな事はもうどうでもよく、痛みに震えながらやっとなんとか歩いているような状態だったのだ。
扇沢駅について車寄せまで行くと臨月間近の姉が車で待ち構えてくれていた。山小屋から父が姉にあらかじめ電話してくれていたらしい。姉の運転で地元の病院に向かった。姉は腹ボテの状態で慣れない山道を運転して来たらしいが、そういえば義兄はそのときどうしていたのだったか思い出せない。

その病院は木造の古めかしい感じの作りで、時間外だったのか僕以外に患者は誰もいなかった。妊婦と血みどろがやって来たのだから先方も可笑しかっただろう。受付するとすぐに部屋に通された。白衣を着た白髪で髭のお爺さんが待っていた。いかにも不愛想な感じの人だったが、何故かどこかで見たような気もした。看護師さんは中年のおばさんで、この人もぶっきらぼうな感じだ。先生は何かを看護師さんに指示すると、僕を椅子に座らせ鉗子の様なものでつかんだ脱脂綿をグイグイと遠慮なく傷口に押し当てて消毒し始めた。その想像を絶する痛みはいまだに忘れられない。背後から看護師さんに首と髪の毛を捕まれ押さえつけられている。膿盆に赤く染まった脱脂綿がすぐに山盛りになった。神経に触る痛みで自然と全身がビクッと跳ねて、両目からは自動的に涙があふれ出る。傷口に砂やバイ菌があると傷口を縫って閉じても後々膿んだりするからと、先生は思った以上に長い時間をこの消毒に費やした。痛みのせいで何度か気が遠くなる。その作業の途中、どこでこうなったかと先生に聞かれたので、立山雄山の頂上でコケたと言うと、先生は作業を中断し椅子を1mほど僕から離し、僕の全身を確かめると再び椅子を戻して作業しながら「この格好で登ったのか」と聞いた。そうですと言うと先生は明らかに動作も荒くして「山をなめるからだ」と少し語気を強めて言った。「どこから来た」「東京です」「ったく!」と大変不機嫌なご様子。消毒がやっと終わりこれからつぶれた肉を一部切り取って裂け目を縫い合わせるという。「首から上の部分麻酔はあまり効かんから覚悟しろ」と言うのでそうなのかと当時は思ったが、考えてみれば歯医者の麻酔はよく効くじゃないかと今となっては思う。

処置が終わり包帯を頭中グルグルに巻かれようやく解放された。母は扇沢駅まで下りた頃にはケロッと治っていたという。仙人の言う通りだった。その晩持ち帰った頓服の入った薬袋にある病院名を見て、地元の親戚の人が「ここ知ってたの?いい病院に行ったね」というので詳しく聞くと、あの先生は山登りの中でもかなり有名な山登りなんだそうで、国内はもちろん海外の山も制覇して来た有名な先生だそうな。医者としては遭難者を山中でヘリに乗せるまでその場の的確な応急処置をし、あとは大病院に任すという頼りになる山神様のような存在なんだそうな。東京からピクニック気分で山に入り、自業自得で怪我する様な山をなめ腐った馬鹿者に愛想を尽かしたのがあの態度だったのだろう。知らず知らずとは言えいい先生に診てもらえたもんだと感謝した。処置は少々乱暴ではあったが。
痛みで数日間は頓服を飲んでも眠れなかった。後日風呂に入った時体中あちらこちらがひりひりと痛むのに気づいた。よく見ると体中に擦り傷や打撲がある。あごの痛みで他の痛みに気付かなかったようだ。

古来から山には神様が居て、これに感謝したり畏怖を感じつつ入山するのが基本的な登山者の心得であり、入山そのものが神事であった。それは当然その険しさや天候の急変という事もあるのだろう。若かったとは言えいくら何でもそういう危機感が全くなかったとは思っていない。ただその危機感がもう少し分厚くて良かったという反省はあった。今回はそれに加え高山病というキーワードが加わった。最近では高度障害というらしい。祓堂が何故その場所にあるのかをちゃんと考えなかったのも反省である。2,500mという高さは高度障害が起こる標高の目安と一致する。祓堂の存在は事故注意意識を高めよという戒めに他ならない。古来よりここから先は神が支配する場所と言い伝えているのは、経験から来る先人の知恵でもある。それを理解し手を合わせ、この先の登山の安全を山の神に祈る場所だったのだ。現代的に訳すなら「ここからは高度障害が起こり判断力が鈍るぞ、気をつけろ!」という注意喚起の象徴だ。母の様にハッキリと症状に現れる場合もあるだろう。それはそれで注意せざるを得ないが、僕の様に明確な症状が現れない場合もあるのだろうと思った。
母が頭痛と吐き気でダウンした段階で全員引き返すべきなのであり、それを押して何故か僕だけ一人で頂上を目指した理由が既によく分からない。この時点で僕は既に高度障害を患っていたのだと思う。その後も他の登山者の装備と自分の恰好を見比べれば、これはマズいと判断するべきだった筈である。登頂後も体を休ませることなくさっさと最頂部へとよじ登り、その祠にさえ手も合わさなかった訳で、時間の感覚が飛んだ状態の頭で景色を漠然と眺めていたのである。そして標高3,000mの強風の中、岩から岩へ飛び移るような挙動は今思えばもう異常としか言いようがない。現地の写真を見ていただければ分かるように、僕はピンポイントで運よく岩から岩へと滑落した様だが、ちょっとズレていれば数百メートル滑落して命を落としていても全く不思議ではない状況だったのだ。病院の先生が不機嫌になるのも今となってはよく分かる。
眼が透き通ったお爺さんの言う通り、あの時下山していればよかったのだ。やはりあのお爺さんは山の仙人だったのかも知れない。今思えばその仙人は病院の先生とも似ていた様な気もするが、この頃の僕にはヒゲを蓄えたおじいさんは皆同じに見えていたとも言える。しかしひょっとしたら山小屋のお爺さんも医者のお爺さんも同じ仙人だったとも言える。もしそうならば僕は当時この仙人を相当怒らせてしまったのだろう。30数余年経った現在も僕のあごにはその時の傷跡が残っている。そして高度障害はその時に狂ったままの記憶を留めたままだ。