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ガーのチカラ

[3705文字]

この2か月程度、ほぼ毎日午後8時ごろ妻と共に50分程度のウォーキングをしている。コロナ禍で世界が閉塞している中で、例外なく僕らもまた閉じこもり気味となり、気分転換と運動不足解消という名目で始めたのだ。平たく言えばつまり、コロナ太りで緊張感のなくなった腹を見るに見かねて、思い付きで付け焼刃の運動を始めたという訳だ。付け焼刃だし、やめて誰かに迷惑をかけるわけでも無し、三日坊主でもいいかとか思いながらの1週間目ぐらいだったか、僕らは1匹の鴨と出会った。鳥の鴨のことである。運動に対して積極的でない僕ら夫婦を2ヵ月間以上これまでに歩かせたのは、この鴨のお陰だった。たぶんこの先も歩くだろう。

歩くのは日が沈み間もない頃の夜道なので、僕らは車通りの少ない路地を選んで歩く。家を出て丘を下ると幅3m程の小さな川に出る。その川に沿って小道が伸び、近所の神社の門前へと続いている。なかなか瀟洒な道なので僕らは好んでここをよく歩いた。カエルの合唱に耳を傾けたり、近付くと鳴き止んだりする虫の声を楽しむように歩く。そうこうしながら神社の門前までやって来ると、いつも暗い川面から決まって小さくガーガーと鳴く声が聞こえて来ていた。最初僕らはそのかわいらしい声を聞いて「この川には鴨が居るんだな」と微笑ましく思う程度で川を覗きもせず通り過ぎていた。しかしそこを通れば必ず決まって同じ場所で同じように声がするので、ある日足を止めどんなやつが鳴いているのか確かめたくなり川面に目を凝らしのぞき込んでみた。

初夏とはいえ午後8時ごろの道は既に暗い。万葉の詩人が「誰そ彼」と歌ったように、すれ違う人の表情はもう読み取れない程度の暗さだ。まして川面はなお暗く、ちょっと見ただけでは鴨だか石だか判別がつきにくい。しかし石と違い鴨は鳴きながら泳ぐのであの動く影がきっと鴨なのだろうと思ったが、やはりよく見えない。そもそも本当に鴨なのか?じゃあ明日も見に来てみよう、となり、翌日も覗き込んだが今ひとつ羽の色などは分からない。じゃあ明日も、となりとうとう鴨を見に行くのが日課になったのだ。

日々歩くコースを変えながらもこの川は必ず通った。いつもの神社に差し掛かると必ずこの鴨を探した。いつもガーガー鳴いているので僕らはいつの間にか彼(彼女?)をガーと名付けていた。名付けると一気に親近感が湧くものである。それ以降なんとなくガーが居る川沿いのコースが楽しみになった。一時はガーに会うためにウォーキングをしていた様なものだった。行けばガーはいつもガーガーひとり言を言うように鳴きながら泳いでいた。いつもはっきりとは見えなかったが、まるでその様子は僕らを待っていた様に見え、一方的に可愛らしく思っていた。

ある日、いつもの場所にガーの姿が見えない事があった。なんだかちょっと寂しい。近所を小さな声でガー?ガー?と呼んで探してみるが当然返事はない。僕らはすっかり鴨の浮き寝状態だ。ところが少し離れた石橋の下に首やクチバシや足が一段と長い、ガーの数倍はある大きな鳥のシルエットが見えた。シラサギはじっとしてこちらを警戒している様だった。脅かしてはかわいそうなので僕らはガーを諦め知らぬ顔をしてその場を去った。そうか、きっとガーもシラサギにいつもの場所を取られて帰るに帰れなかったんだろうと歩きながら話し合った。

それにしてもどこへ行ったんだろう?と翌日の昼間もガーの事を考えたりする。次の晩も時間になると僕らは特に打ち合わせたわけではないが、そそくさと着替えてウォーキングに出かける。その日はちゃんとガーはいつもの所に居て僕らはとてもホッとした。ガーは僕らにとって、神社前の川でいつも通りガーガー言って泳いでいてくれたらそれだけでとても安心という存在になっていた。野生の生き物なのだから別に考えても仕方ない事なのだが、ちゃんとエサは食えてるだろうか、天敵に怪我させられたりしてないだろうかなどと、考えればあれこれなんだかとても心配になってくる。

そしてまた別の日、ガーの姿が見えないと思った時、遠く後方の空にガーガー鳴く声が聞こえた。振り返ると彼はちょうど僕らの真上を鳴きながら横切り、そのまま前方の空へと飛んで行ってしまった事があった。その西の空が辛うじて夕景を残す明るさだったが、ガーは鳥目じゃないのかなどと再びつまらぬことを案じたりする。
またある日は3匹の鴨が賑やかにガーガー鳴き合いながら上空をグルグル飛び回り、そのまま何処かへ飛び去って行ったことがあった。僕らはあの中の1匹はきっとガーだと思い込んでいる。ガーの兄弟か親子か友達同士なのか、それとも恋の季節なのか、どちらにせよガーはガーの世界で精一杯たくましく生きているように見えた。

そして6月の半ばになった頃は、もうガーはあの川からすっかり姿を消してしまっていた。いつ通ってみてもガーの声は川にも空にも聞こえてこない。神社の門前はそれだけで以前より酷く閑散として寂しい感じになった様に思えた。口ではきっとどこかで元気なんだろうと言い合いながらも、つい川へとやって来ては耳を澄まし目を凝らしてしまうのだ。しかしガーの気配はなく、僕らはこの一方的な寂しい気分がずっと拭えないでいた。そしてそれ以降僕らはガーの姿を見ていない。

ずいぶん昔に実際の田圃のあぜ道で取材した「合鴨農法」というのを思い出していた。農家のおじさん曰く、田植えを終えた頃に孵化してしばらくした合鴨の雛を田圃に放ち、稲の生育と共に鴨も大切に育てるのだそうだ。鴨は飛べない鳥なので、田の周りに柵をして小屋を作ってやればいい。エサは害虫や雑草を食べてくれるので不要な上に、農薬を大幅に減らせる。しかも鴨の糞はそのまま稲の肥料になり、更に田圃に滞留する泥をあの足でかき混ぜ、酸素などの栄養分を泥の中に撹拌させるので、稲の生育にも大変良いという一挙両得の農法だという。固まって泳ぐ小さな雛たちを眺めながら、人にも稲にも鴨にも優しい素晴らしいその農法を微笑ましく思ったのも束の間、次の説明で僕は愕然とした。
合鴨は人工交配種で他の固有種の鴨を守る為、放鳥を固く禁止されているのだという。なので田圃の水を抜いた後その用済みになったその年の合鴨たちはすべて捕らえられ、人間たちに食べられてしまうのだという。なんという事だ!人間はいつもそうか!悪魔の所業だ!などと思いながら、広々とした田圃の水面に航跡を残しながらピヨピヨと泳ぐ、まだあどけない雛たちの姿を見ていた。おじさんは「こいつらは死ぬ時まで役に立つんだ」と言っていた。
しかし僕らのガーは町に居たし空を飛んでいたのだから合鴨じゃないだろう。だから食べられたりはしないし、田圃の水が抜かれた秋口になれば、そしたらまたきっと神社前の川に舞い戻って来るに違いない。しかしこの話は妻には内緒にしておこうと思った。

僕らは恐らくガーの事をひどく勘違いしている。見た目が小さいので勝手に弱い生き物だと思い込んでしまっている。勝手にかわいらしい都合のいい虚像を作り上げ、そして勝手に心配し、僕らは心配している自分自身を勝手に良しとして、勝手に自己肯定してしまっているのだ。太古の昔から脈々と命をつないできた鴨という鳥は、きっと僕らが心配する様な弱い生き物ではない筈だ。ガーに限らず野生の生命力は今や風雨にさえ晒されない僕ら人間よりずっと強いだろう。僕らはただ勝手な思い込みをして少し情が移っただけなのに、自分の弱さを棚に上げ偉そうにガーの心配なんかしたりしている。そんな情などどこ吹く風で、彼は彼の思うまま自由にこの広い空をどこまでも飛んで行けばいいのだ。またそうでなくてはいけないのだと思う。鴨の水掻きとはよく言ったもので、僕らが知らないだけでガーは相当たくましいのだと思う。

ガーに会えなくなった数日後、鴨の習性についてちょっと調べてみた。するとこの季節多くの鴨は田植えの済んだ餌の豊富な田圃に移動し、田圃パラダイスを謳歌しているというポジティブ情報を手に入れた。カルガモの親子がこの時期あちこちで移動しているニュースを目にする。そのかわいらしい姿を見せれば警察官が何車線も車両規制して道を作ってくれるのだ。鴨からしたら人間こそいいカモなのだろう。そもそも移動先の田んぼで鴨が雛を育てるのを見て合鴨農法が始まったのだから、人間らのお盆帰省のように、日本の鴨としてはこの時期の田圃移動は当たり前の風物詩なのかもしれない。ガーもどこか手ごろな田圃できっとご機嫌に過ごしているに違いない。そう思えばひと安心だ。そしてこの安心情報を妻と共有し、今頃リッチなタンボサイドでカクテル片手にバカンスしてんだろ、と言いながら最近はガーの居た川のコースはあまり歩かなくなった。しかし秋にまたガーと再び会えるかもしれないという微かな希望の元、その時まで僕らもこのウォーキングをやめる訳にはいかなくなったのだ。
鴨は5年から10年生きるらしい。長い付き合いになれば僕らはうれしいと思っている。さて、それまでウォーキングが続くかは分からない。

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