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雲逐寺 喜遍住職 放話【世界】フィクション仕立て

【3278文字】

近頃

CO2削減や
SDGsとかグローバル化社会だとか
ネットやTVなどのメディアが
やいのやいのと騒がしい時代ですが
ここ数十年で地球もグッと小さくなって
世界は一つ 地球は一つと
もうずっっっっっと
昭和の頃から皆が叫んでるわけです
さて質問です
世界は本当に一つだと思いますか?
・・・・・
いやいやオカルトや
スピリチュアルな話をしよう
って訳ではありません

さて

先日本堂で夕刻のお勤め
お経をあげているとき
もうどうにも無性に気になって
どしようもなくなったことがあります
その気になった事とは
「外の釣り鐘堂は今存在しているだろうか」
という事です
おかしな話ですけど
考え始めると気になって気になって
お経も上の空になる程気になりましてね
お勤めを早々に終わらせ
本堂からダッシュして
境内の釣り鐘堂をみましたら
ちゃんと存在してまして
ホッと一度は安心したんですけど
次第にまた不安に駆られ始めます
食事していても風呂に入っていても
もう気になって気になって
しょっちゅう確認しに行きます
とうとうその晩はほとんど眠れなくて‥
このお話
なんだか禅問答の様な
いや ウチは禅宗じゃないので
ただの妄想や詭弁だとお思いですか?
釣鐘がお堂ごと消えるなんてことは
当然あるはずがないので
誰だって イヤそりゃ消えないでしょ
と思うのは当然なんですけど
一度気になり始めると
もう止まらないんですよ
そういう事ってありませんか?
ないですよね
まあそう言わず先を読んでください

翌朝

寝不足の頭で目を覚ましまして
私は急いで釣り鐘堂を見に行きました
当然ですが釣り鐘堂はありました
ホッとして引き返そうと背を向けた時
ん?この瞬間に釣り鐘堂が消えている
なんて事はないだろうな
とまた不安になり振り返ってみますが
やはり釣り鐘堂はあります
何度振り返ってみてもあるのです
少し私がおかしくなったのかとお疑いですか?
確かにそう思われても仕方ありません
妙な妄想ですからね
しかし私よく考えてみたのです
もしもですよ
私が見ていない時に限って
この釣り鐘堂がここに存在していなくても
私にとって何も不都合はないんじゃないかと
見た時や必要な時に存在してくれていれば
それで用事は足りるのです
必要のない時は別に無くていいんです
実際はあるんですけど
私的には見てない時はなくていい訳です
そう気付くとですね
昨夜心配して眠れなかったことが
とても悔やまれましてね
あんなに心配する必要なかったと
見てない時になくなってたとしても
別に構わなかったんだとね
寝てる時は無いんだと決めつけて
ぐっすり眠ればよかった
もったいない事をしたと思うようになりまして

ちょっと

変な解釈の仕方ですか?
皆さんとは違うかも知れませんね
つまり皆さんは釣り鐘堂が物理的に
あったり無くなったりするはずがなく
お堂は常にそこにあるんだから
そんな心配すること自体がおかしいのだ
と思ってそんな心配なんかしませんよね?
でも私はちょっと違ったのです
私が見ていない時に釣り鐘堂が消えていても
それは一向にかまわないじゃないか
必要な時だけいつも通り現れてくれたら
何も心配する必要はない
そう考えたのです
見ている時には常にあるのですから
どちらも結果は一緒ですが
考え方はかなり違いますね
同じ結果でもその物事の認識の仕方
つまり思考のプロセスは
大きく違います
同じ結果ならいいじゃないかと
思うかも知れませんが
認識の仕方で
もっと大きな結果が変わってきます

社会

に居ますと
どうしても気が合わない人と
お仕事をしなきゃいけない事も多くあります
避けれるなら避けたいという人は
案外多いのかも知れませんね
あなたにとって苦手な人です
ここで言う苦手な人は
前出の釣り鐘堂と同じです
居なきゃいいのにそういう人に限って
振り返るとそこに居るんですね
でも仕事が終わって家に居るときや
友人たちと遊んでる時は
苦手な人と会う事はありません
ありませんけどこの人は
消えてしまっている訳ではなく
存在はどこかにあるのです
そう思うとまだ土曜日は始まったばかりなのに
月曜日にまた顔を合わすのかと思って
キリキリと胃が痛んだり
悪くすれば鬱病にだってなるのです

これは

つまり釣り鐘堂があるのかどうか
心配して眠れなかった私と同じなんですね
先ほど皆さんはこの坊主は
とても無駄な心配をしてる
そう思ったでしょ?
この苦手な人に関してはどうです?
あ~分かる分かる
居る居るそういう苦手なヤツ
って思いませんでしたか?
でも「釣り鐘堂」も「苦手な人」も同じなんです
今ここに居なくても一向に構わないし
いわんや苦手な人ならなお更です
そして釣り鐘堂もこの苦手な人も
こちらが都合いいようには変化しません
変われるのは私たちの方なのです
認識の仕方で考え方を変える事が出来ます
どの様にこの人を認識するのか
それによって自分自身の気分も
周りに与える影響も大きく変わるのです

仏教では

これを「空」と言ってます
0でも1でもなく
白でも黒でもない
かと言って0.5でもグレーでもありません
極端と極端の間を自由に存在出来て
何も決めつけない
独自の実態を持たず相互依存的
そんな感覚の事を言います
釣り鐘堂が消えるはずないとか
その釣り鐘堂はまぼろしだというのは
考え方として両極端です
決めつけとも言えます
私が見た時に存在してくれたら
それでOKという都合のいい考え方が
「空」です
今は目の前にはいないけど
その苦手な人は
きっと今も私をバカにしているとか
そうだこの苦手な人を殺してしまおう
とかは極端な考え方で
一方的な決めつけです
あんな言い方しか出来ず皆から嫌われ
今後もそういう自分に気付けない
とても可愛そうな人なんだと
勝手に認識する事もできます
そういった認識は作り話でもいいのです
本気で可愛そうな人と思わなくても
思い付きの自由な作り話でOKです
一番自分に都合のいい解釈を
自由にしてやればいいのです

では

坊主らしいお話をしましょう
大切な人がお亡くなりになる
これは本当に悲しい事です
亡くなった方は生き返りません
相手は変わらない訳です
つまり悲しみとは
自分の認識が悲しませてるということです
身近な人ほど悲しみは深くなります
一方でテレビのニュースで
地球の裏側のどなたかが亡くなった
そう聞いても正直言って
涙を流して悲しむ人はほぼ居られない
しかし人の命の重さに
違いはありませんよね
大小差のない命は平等です
でも悲しみの深さは大きく違います
なぜかというと
やはりその人に対する認識の深さが
大きく違うからです
認識しているのは私たちの方です
身近な肉親が亡くなるのと
赤の他人が亡くなるのでは
認識が全く違うのです
では死に際が辛いからと言って
生前から可能な限り疎遠にするかというと
それはさすがにあり得ません
人同士は何らかの縁で
必ず誰かとつながっています
例えばどなたかが亡くなって
どうにも悲しくて仕方ないという事ならば
その人との縁がとても深かった証であり
少なくともあなたはこの人に対する認識を
とても深く感じていたという事です
死別はお互い今後縁がなくなってしまう
これが悲しいのです
亡き人の為にもご自身の為にも
沢山悲しんであげればよいのです

相手

は変わらない
しかし私は変われる
変わる自由がある
この事が如何に大切な事か
知っておいても良いでしょうね
相手は釣り鐘でもなんでも
人間に限りません
夕日でも白米でもペンでもなんでもいいのです
同時刻の同じ場所に居ても
その同じ夕日は見る人によって
失恋した人とプロポーズされた人では
大きく違って見えます
その時変わったのは夕日ではなく
あなたの認識が変えています
あなた自身がどう見るのか
あなた以外の物事をどう認識するか
それによって世界は大きく変わってきます
それはつまり人間の数だけ世界があり
世界はその人固有の財産でもあり
世界の一部を誰かと分かち合う事も出来るし
世界はあなただけが保有できる領域でもあるのです
世界を広げるのも縮めるのも
あなたの認識次第なのです
世界を作っているのは
決して政治家やお金持ちなんかの
他人ではありません
お金や環境や物質でもなく
世界はあなたが自由に持った認識で出来ている
そう言えるです

もし

いつも明るく清々しい世界に
生きていたいとお望みなら
その様な認識で世間を眺めると
別世界に行けてしまうという
有難いお話でした