自己分析①

自分はどういう人間なのか、もし書けるとすればそれはどのような内容になるのか。

実際に書いてみることにする。

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私は20歳。何不自由なく過ごしてこれたのは、とても幸福なことであり、私は恵まれている方だと強く実感している。

だが、これは今だからこそ言えることであり、当時はあらゆる困難があり、頭を悩ませたことに違いない。とりあえず「20年間」の歴史を振り返ってみたいと思う。そのためには、分かりやすく時代区分の設定をしなければならない。

今回は以下のように設定した。
自我未発達期・・・中学校時代
自我抑制期・・・高校時代
自我解放期・・・大学時代前半
自我錯乱期・・・大学時代後半

この設定をもとに、私は自分の20年間の見方について「masuo史観」と呼ぶことにする。自我とは大層な響きであるが、「自分がどういう人間なのか思考すること」と今回は措定する。異論は面倒なので聞かない。

(1)自我未発達期

中学校時代のことである。正直、「自分のこと」は考えてこなかった。いや、考えようとせず、その答えは未来の自分に一任しようとしていたとする方が正しいのかもしれない。ただ、私は周辺から嫌われないよう努力してきた時期であった。中学校時代の自分はおそらくそのことに相当なエネルギーを注ぎ込んでいたと思われる。

なぜそのようなことをしたのか。これは正直、環境のせいだ。もう環境のせいでよい。私の中学校はそりゃあもう、田舎の田舎で、コミュニティが濃密で、あらゆる猥談・流言が広がるところであった。そのため、クラスメートの人間的評価は、もはやその「雰囲気」が決めていた。「集落」からこぼれ落ちたら、もう終わり。昔の「ムラ」みたいだった。これが異常な世界だということに、当時中学生であった私が気づくはずもなく、私のそのコミュニティの住人として、息を吸って吐いて生活していた。したがって、この「家」で嫌われたら、もう人として否定されたようなもので、生きた心地がしなかったことだろう。私は幸い、この「家」で平穏に暮らしていたので、とくに怖れることはなかった。しかし、安息なこの「家」のおかげで、自分という人間を丹念に磨きあげることなく、省察することもなく、堕落してしまったことは否めない。

(2)自我抑制期

この時期が一番の暗黒期であり、ここからの発展が何より明るく、自分の人生を照らしてくれただろうか、計り知れない。

可能性という家賃を滞納し続けた結果、「家」を追い出された私は、高校という別の「家」に行かされた。がしかし、ここが最悪の「家」であったのだ。競争原理があまり働かなかったかつての「家」は居心地がよく、大変気に入っていたのに、この「家」は一体。毎日毎日、人を蹴落とすためのお勉強。テストの点数が良く無かった人は先生と面談していた。人を幸せにするはずの学問を学ぶための勉強が、いつのまにか人を蹴落とす「武器」になっており、テストで日頃からそれを磨がなければならなかった。テストでは「武器」がちゃんと使えるか査定してもらった。

私の特質は、どのような状況だろうと、「家」に適応する能力だ。したがって、盲目的に「武器」を磨くことに集中した。そうすれば学校からお利口さんと認められ、「家」の住人になれたのだ。ここでも中学校と同じように、住人になれることだけを目指したため、「自我」は発達するどころか、抑制されてしまった。頭がフニャフニャで一番柔らかい中学高校の時期に私はしょうもないところにエネルギーを全振りしていたのかもしれない。今思えば、私は大変な間違いを犯してしまった。

ただ、よくやっていたことがある。クラスの構造の俯瞰である。クラスのヒエラルキーを自分なりにわかりやすく頭の中で図式化し、勝手に納得していたのである。とくに力点を置いていたのが「自分の位置づけ」である。これは嫌われたくなかったという心理が強く作用したことにも関連する。だが残念なことに、その主観的分析は私をヒエラルキーの上位に入ることを許さず、せいぜい1軍投手のボールを受けるプルペン捕手並の評価しか与えなかった。1軍と一応会話はできるらしいが、しかし1軍に入るどころか、選手ですらなかったことは流石にショックであった。

新たな「家」に嫌気が充満した頃、解約手続きの時期がやってきた。センター試験である。私はダイガクというものに、強烈な憧れを抱いた。サークル、バイト、研究と多種多様な世界に夢を見た。

「ダイガクに行くことができるなら」
私は本来行うべきであった「自我」を犠牲に、解約手続きに奔走した。暗闇の中に微かな光が見えると、そこに猛烈に走りたくなる習性を聞いたことがある。その時の私はまさしく光を求めて走っていた。

何とか解約手続きを終え、私は「家」の引越しをした。改めて「家」を見ると、もう少しここで何かすることができたのではないかと猛烈に後悔した。桜は確か綺麗だった。

ここまでを振り返ると、私は「自分がどのような人間なのか」ということについて、全く正面から向き合わず、ただ「家」の住人になりきろうと保身ばかりに力点を置いていたのかもしれない。しかし、こうやって文章を書いている現在から、かつての自分を見ると、対象としては非常に面白いことに気づいた。安易な自分語りを超越し、ものすごく独特な気分にさせてくれる。ここまでは前半。後半は「家」からの解放を果たすも、今度は「家」を無くしたことで、自分というものが錯綜する時期に直面する。それが大学時代のはじまりである。

#人生 #中学 #高校 #大学

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