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ほんとうに必要なのは「成長しなくてもよい場」だった

こんにちは、ますおです。
久しぶりのnoteです。

年度があけ、ばたばたの4月を迎え、昨年度の1年間と距離をもちながら冷静に振り返ることができる時期に入り、自分がどんなことができて、どんな影響があったのかを整理しつつあります。

学習会という切り口で、どう「子どもも大人も一緒に育ち合う場」を作ることができるのか。京都に来て4年目になりますが、それを問い続けた4年間でもありました。

脳裏にはタイトルの通り、どうしても学習会の名称の活動になると、関わるボランティアさんも「勉強教えないと!進路どうにかしないと!」とどうしても子どものニーズから離れる関わり方に偏るモヤっと感と、とはいえ勉強の活動に力を入れると、どこか「勉強しないで大丈夫?」というボランティアさんや保護者さんの不安と焦りが募り、放置すると「なんのためにこの場に来てるかわからない」と来れなくなる理由、来たくなくなる場づくりが生まれてしまう。

時には遊び、時には休み、時には学ぶ、そんな柔軟に子どもにとって「今」必要な活動をしつつ、でもなんのためにここに来てるかわかりやすい言葉で且つ日常生活で使う言葉って実は難しくて、たぶんそこが「居場所」の言葉使う使わない議論なんだと感じております。

時間割がない生活を経て

2021年、まだまだコロナで緊急事態宣言やまん防が発令される中、どうすれば子どもたちにとって「今必要な育ちの時間」を作れるか悩みました。コロナによって失われたかもしれない、本来は必要だった体験や機会はなんだったんだろうか。コロナじゃなくても、それぞれの暮らしの中で、今どんな時間が足りてないのだろうか。

コロナ1年目の2020年で得た気づきは、「時間割がなくなった(2020年4月〜5月ごろ)からこそ、どんな時間を過ごせば自分を満たせるか、子ども自身も問われた」ということでした。絶対勉強したくないといっていたけれども突然勉強に目覚めたり、今まで趣味や好きなことが見つけられなかったけどやっと探す時間がもてて手応えをみつけたり、学校の時間を一旦離れることで自分の生活を見つめられたのは大きな出来事でした。

その経験から学習会では、教科学習だけの学びではなく、もっと日々の生活の生きる実感が湧く学びができればと試行錯誤をはじめました。

いきなり「なにしてもいい時間」ができても…。

「学びとは、育ちとは」の問い直し

どんな育ちを応援したいか、どんな学びがうまれるとよいか。普段活動をともにする大学生世代のボランティアさんと一緒に悩みました。

〜子どもたちにとって育ちとは〜
「やりたいこと、好きなことを見つける」
「自分を知る、理解できる」
「(頑張る方向性の育ちの時間が多いからこそ)やすむ。やすみ方を見つける」
「他人と楽しい時間をつくれる」
「成長と育ちってちがうよね」etc…

会議めも

どうしても社会的には「できることが増える」、「できるようになる」のような能力が上がったり、人間性が磨かれたりのような部分が切り取られやすいとは思うのですが、よくよく話を重ねていくとそれだけが育ちではないよねというところが見えてきました。

思い出を積み重ねることも育ちであるし、いろんな人と出会うことも育ちではないか。異なる他者がその場に集まって、異なる価値観や文化にふれて、新しい世界が見えてくる感じ。できるというよりは、広がるイメージ感でした。

このあたりの話が深まってくると、①学習会という切り口で、②子どもも大人も育ち合う場の解像度がぐっと上がってきました。家でも学校でもなく、塾でもない学習会という場。わかりやすい勉強してないけど、場所の意味合いを子どもにも保護者さんにもどう共有するか、言葉の整理が進みました。

自習室以上、塾未満の場所として、みんなで学びをつくる

「塾でもないこの場所って、なんだろう」
「子どもにとって、今ほんとうに必要としている時間って・・・」
「単に"居場所"、みたいな日常で使わない言葉はできるだけ使いたくない」

その中で生まれた表現が、「自習室以上、塾未満」というフレーズでした。

図書館のように静かにしないといけなくて、ちゃんとしないといけない、とかではなく、また塾みたいにがっつり勉強というわけでもなく、どちらもいいとこどりしたような場所。

大人がいいと思って用意された学びではなく、「これ、おもろいんちゃうん?」と自然に手が出てしまう感覚。

地域のボランティア組織として「子どもと大人が一緒になってものごとに真剣に向き合うことで、」の想いにある、子どもだけが楽しい、大人だけが楽しいではなく、ともに楽しめる場づくりを大切にしたいところが、「みんなで学びをつくる」でした。

いつだって、試行錯誤で協働作業。うまくいかないことのほうが当たり前。

「弱音出せてますか?」

2022年4月。新たな気持ちでとボランティアの方と話しているときに、とても刺さった一言がありました。

「無理な背伸びをやめた、というのが私の3年間の変化ですかね」

「はっ」と、手に持っていたものを落としそうになるくらい、その言葉に衝撃を受け、今まで考えてきた学習会の場のイメージが崩れる瞬間。

週に1回、2時間という限られた時間。年間計算でも50回未満のこの活動で、どうしても「ここに来た意味を作らねば」という思考。学びや意味への執着が、「こうなってほしい」という子どもへの過度な期待になり、目の前の子どもたちの「今」と向き合えず、「いい大人になってほしい」という期待を自己満足で押し付けていたのでした。

「中学生のときって、やっぱり大人な部分に惹かれるじゃないですか。だからちょっといきったり、強がったり、かっこつけたり。そればっかりだと疲れるし、飾らない自分を出せるって大事だと思うんです」

確かに、他の人にも、

「ますおさんって、実は弱音出せてないですよね」

とつっこみを受け、冷や汗をかいたことを思い出す。だめな自分、弱い自分、見せたくない自分と、一人の人間の中にそんな多様な面があるにもかかわらず、なによりも自分自身が、子どもと一緒に育つ場に「社会の圧力」みたいなものを持ち込んでいたのかもしれないと気づかされた瞬間でした。

ほんとうにこの場って、子どもにとっていい環境???

ほんとうに必要なのは「成長しなくてもよい場」だった

期待のしすぎ、というのはある種の暴力のようで。

自他共に、人に期待するというのはよくない影響が多く、「その子の可能性を信じてる!」と言えば聞こえがいいようで、実はその人の等身大をちゃんと見れてない可能性のほうが大きいかもしれない。

むしろその期待で見えなくなった、本音の気持ちを確認せず、大人のペースで場やコミュニケーションが進んでしまうことはよく起こり得ることで、子どもの時間はその子ども自身のもので大人のものではない。

ねずみと象で、1秒で過ごす時間の速度が異なるように、子どもと大人で同じ1時間でも過ぎる時間の速度は異なる。

子どもにとっての365日24時間、活動の2時間は「たった2時間」ではなく、「子どもの2時間」なのであった。

だからこそ、そんな急いで学びや成長の場を準備しなくても意味づけしなくても、逆に学びや成長の機会を奪っているのかもしれなくて、ただ一緒に過ごした時間だけでも実はすでにそれだけで意味があることだったりする。

「学習会」という名前だけれども、目に見えるようにいい子にぐんぐん育つような場ではなく、やっぱり複雑で変わりたくても変われないのが人間で、自分の力ではどうしようもないことなんて人生いっぱいあるわけで、そんな人の生を無理なく持続可能な形で一緒に歩むところが、学習会のあるところなのかもしれない。

長い人生、ま、無理なくいこうか。

京都に来てもうすぐ5年目。もっと楽しい活動づくりをしたい・・・。 がんばります!