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R-18初恋小説『ジジジジ』作=枡野浩一


初恋は「おててつないで」歌いつつ野道を歩く少年少女


本作『ジジジジ』は、2004年にUPLINK FACTORY他で上映された、ピンク映画監督・佐藤吏 satou osamu 氏による同題の映画(原案=枡野浩一、脚本=佐藤吏×枡野浩一)のエピソードをふくらませて再構築し、アンソロジー『初恋。』(ピュアフル文庫)のために書き下ろした短編小説です。その後、2013年にcakes( https://cakes.mu/series/868 )に転載。このたびcakesのご厚意でcakesと同じ会社が運営するnoteにも掲載します。3部構成のうち、映画の原案部分を含む第1部を、無料公開します。第3部は、小説版オリジナルです。


1(健太)

 江ノ島の海が目の前に見えたとき、自販機で「あったか~い」の缶コーヒーを二本買ったら、三本出てきた。

 小銭は二本分しかいれてないから一本トクしたことになるわけだけど、一本を恵さんにあげて、一本を俺が飲んで、最後の一本はやっぱり持て余してしまった。

「むかし、当たり付きの自販機ってあったよね。ボタンを押してクジに当たると、もう一本好きなジュースが買えるってやつ」

 恵さんが空き缶を捨てるときに、白い息を吐いて言った。

「ありましたね。俺の友達に、三回に一回は当たりが出るっていうやつ、いましたよ」

「えー、あたしあれ、当たったことないよ?」

「俺もないっすよ。そいつ、俺と一緒にいるときにも当たったことあって……。三回に一回っていうのは大げさかもだけど」

 当たり付き自販機は最近、見なくなった。なにか事故でもあったのかなと思いながら、少しぬるくなってしまった二本目を飲む。

「その人、ものすごく運がいいんじゃない?」

 恵さんは時々、「運」の話をしたがる。運がいいとか、悪いとか。

 恵さんとデートしてる今の俺のほうが、よっほど運がいいっすよ! そう言いたくなったけれど、ガキっぽく思われてひかれてしまうのが怖くて、言えなかった。

「こんなしょぼいことで運をつかい果したくない、っていつも言ってました」

 そいつは星野という名前で、中学のときの親友だったんだけれど、今は音信不通だ。

 江ノ島に行きたいと言ったのは恵さんで、理由は「いかにもデートみたいなデートをしたいから」だそうだ。

 俺が高校生だから気をつかってくれたのかと最初は思った。

「デートらしいデートって、したことないの」

 って淋しそうに言われると、その言葉は嘘ではないのかもしれないとも思った。ずっと、わけありの恋愛でも、していたんだろうか。

 恵さんは三つ年上の二十歳。小さな会社で事務をやっているという。それ以外のことは、あまりよく知らない。恵さんが話したがらないことは、無理にきかないようにしているのだ。

 鎌倉駅で待ち合わせして、江ノ電に乗ってここまで来た。俺は恵さんと一緒なら、どこでもよかった。電車に乗ってずっと話しているだけでも楽しいし。

 恵さんと最初に出会ったのも電車の中だ。

 俺は基本的には自転車通学なんだけど、夏の終わりにチャリを盗まれて、電車で学校に行っていた時期がある。そのころ、よく同じ車両で見かけるようになった。

 いつもうつむいて本を読んでいて、淋しそうな感じだった。笑った顔が見たいなと思っていた。

 手紙なんて今どき流行らないけど、ほかに方法が思いつかなかった。携帯のメールアドレスを書き添えて、自分の名前をちゃんと書いて、「話したこともないのに、好きになってしまいました。今度ちょっとでいいんで話してくれませんか?」と書いた便箋を封筒にいれて、手渡した。そんな短い文なのに、何度も何度も書きなおして、徹夜で仕上げたのだ。

 最初のデートのとき、なんで連絡くれたのか恵さんにきいてみたら、

「いかにもラブレターみたいなラブレターだったから」

 って笑った。笑っても少し淋しそうなんだなと思った。そのときも、普通でない恋愛をしてきたひとなのかもしれないと想像した。

 恵さんと俺は、冬の海でサーフィンしている人たちを眺めつつ、あたりさわりのない会話をして過ごした。

 俺が全部おごりますと宣言していたせいか、恵さんはマクドナルドのフィレオフィッシュが食べたいと言った。バイトもしてるし、もっと高いものでも大丈夫すよと言ってみた。

「食べたいものがあるときには、あたし、遠慮しないから」

 って、まっすぐ見つめられたら同意するしかなかった。

 寒かったけどコーヒーはさっき飲んでしまったし、ふたりとも飲み物はコーラにした。俺はチーズバーガーを二個。ビッグマックを一個買うより、食べやすいかと思って。

 ベンチに、少しだけ距離を置いて並んで腰かけて、二人のあいだにポテトとか置いて食べてた、そのときだった。

 ひゅーっと大きなものが空から落ちてきたかと思ったら、ばさばさっと羽ばたいて、恵さんの手のフィレオフィッシュを一瞬で奪って、また空へと戻っていった。

 鳶(とび)だった。ケガはなかったけれど、野生動物が突然ニアミスしたことには二人とも度肝をぬかれて、数秒間絶句していた。

 それから顔を見合わせて、すごく可笑しくなって、しばらく笑い続けた。なにより可笑しかったポイントは、俺の最近やってるバイトが、「鳶」だってことだ。

 

 三度目のデートでやらないと、そのカップルは友達同士で終わる。

 そんな噂話を俺はすごく意識していた。きょうこそはホテルに誘うぞと張り切っていたんだけれど、恵さんのほうから帰り際に誘ってくれて、びっくりした。

「ラブホテルに行ってみようよ」

 いいんすか? って俺が念を押したりすると、冗談にされてしまいそうな気がしたので、

「はい……」

 って答えて、それから無言で歩いた。自慢じゃないが俺は童貞なんで、ラブホテルに行くのも初めてだ。

 たどりついたそこは、あんまりお洒落な雰囲気じゃなくて、

「いかにもラブホテルって感じすねえ……」

 先回りして俺がそう言ったら、

「未成年者を連れてくると、淫行になるのかな?」

 とか、入り口のところで恵さんが言いだした。

「や、それはオヤジとかが女の子を連れてきた場合っすよ」

 慌てて、よくわからない理屈を口走ってしまった。金は俺が払うつもりだったのに、恵さんがそれをとめて、ささっと払ってくれた。

 恵さんはラブホテルのシステムにも慣れてるみたいだったけど、部屋に入ってからは無口になった。俺が備えつけのテレビをつけてみたり冷蔵庫をあけてみたり、

「カラオケあるんすねー」

 とか不自然に面白がってみたりしてたら、恵さんが棒読みな感じで、

「シャワー、先に浴びてきて」

 って言った。先生に指示されて生徒が従うみたいに、

「はい」

 ってシャワーを浴びた。コンドームを用意してきただけじゃなくて、コンドームをつける練習もしてきた。でも、初めてじゃないふりをするのは無理だと思った。

 ホテルの部屋の中で、そこだけ最近改装されたみたいにシャワー室は新しかったけど、壁に大きな鏡が貼ってあって、はしっこのところに少しヒビがはいっている。

 鏡の中に見える、緊張して上向きになったちんちんが、なんだか馬鹿みたいだった。水泳部とバイトで鍛えて割れた腹筋とかが、さらにまぬけさを強調している。

 どんな格好で出ていくのが正しいのかわからなかったけれど、下半身にバスタオルを巻いて、上半身は裸のままシャワールームを出た。

 恵さんは何も言わずに、俺といれちがいにシャワーを浴び始めた。

 一人でベッドに腰かけて、服を着るべきか迷って、いったん上にTシャツだけ着てみて、また脱ぐことにした。

 あかりのスイッチをいじって部屋の薄暗さを調節したりして、やっぱ何か着ようかなと思い始めたとき、バスタオルを胸から下に巻いた恵さんが出てきて、俺の隣にすわった。恵さんの肌は真っ白だった。

「俺、初めてなんです」

 事前に宣言するのは卑怯かもと思っていたのに、つい、言葉が出てしまっていた。

「あたしも……」

 恵さんが言った。

 え……と意外に思ったけれど、もちろん声には出さなかった。

 キスは二度目のデートで経験済みだったのに、この場でキスするのには、ものすごく勇気が必要だった。それからこわごわと、恵さんの全身を抱きしめるようにして、今まで見聞きしてきた「セックスのやりかたの知識」を総動員して、やった。

 最初、コンドームをつけるときに射精してしまって、すごい気まずかった。すぐにまたコンドームをつけられる状態になって、二度目はどうにか挿入できた。

 恵さんは薄暗い中で痛そうにも、気持ちよさそうにも、泣いているようにも見える表情で、時々ちょっとだけ吐息をもらした。

「恵さん……。好きです」

 って言おうとして、名前を言った瞬間に果ててしまったから、「好きです」は心の中で言った。

 恵さんは、

「健太くん……」

 って俺の名前を、珍しく呼んでくれた。果てたあと抜こうとしたら恵さんは、俺の首筋のあたりに顔を押しつけて、しばらく動かなかった。俺はコンドームが抜けてしまわないか、気が気じゃなかった。



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2(恵)

 「あの……。これ……。手紙です」

 通勤電車の中で封書を渡してくれたときの健太くんの声は、低くて、かすれていて、かわいかった。それだけ言って、逃げるように電車をおりていった。おりる駅に合わせて、ぎりぎりのタイミングで渡そうと、待ちかまえていたのかもしれない。

 高校時代のあたしも、ああいう感じだったのかもしれないと思って、なんとなく同情するような気持ちになった。

 だからかな……、書き添えられていた携帯アドレスに、その日のうちにメールしてみた。

 顔文字とかを一切つかわない、文章を書き慣れていないのだろう返信メールの文面に、好感を持った。

 告白されたのは初めてだ。

 告白したことは一度だけ。

 あのころ、あたしと先輩は、つきあっていたことになるんだろうか?

 美術部のほぼ全員は幽霊部員だった。うちの高校で美術部に所属するということは、「帰宅部」に所属することを意味していた。例外的に活動をしていた唯一の部員が、平中先輩。

 先輩、先輩、と皆に呼ばれていたものの学年はあたしと同じ三年で、つまり彼は留年しているのだった。

「どうせ美大めざしたら浪人とかするんだし」

 と、本人は気にしていない様子だったけれど、周囲は彼が年上であることをわりと気にしていた。ほとんどクラスメイトと話してるのを見たことがなくて、それであたしは興味を持って近づいてしまった。

 先輩はいつも放課後の美術室を独り占めして、油絵を描いていた。油絵の具はなかなか乾かない。「そろそろ完成?」と素人目には思える段階になってからも、何日もかけて筆を足していく。時には金属のへらで絵の具を削ったりする。

 先輩は白衣を着ていた。白衣と言っても絵の具でカラフルに汚れていて、それ自体が抽象画みたいだった。その白衣は本当は化学の授業とかで着る用の白衣なのだけれど、化学の授業でも同じものを着ているんだと先輩は笑って言った。

「叱られないんですか?」

 化学の女性教師は生徒をねちっこく叱ることで有名で、「ねち子」とあだ名されている。

「もうあきらめてるみたい」

 あきらめてるのは先生じゃなくて、先輩のほうじゃないか、そんな気がしてならなかった。

 あたしも美術部に所属だけしてみたけれど、そもそも三年生だし、美術部でなくても部活に出ない人のほうが多い。絵を描く先輩のところに顔を出して、少し話をして帰るだけ、という毎日が続いた。大学受験をする気はなくて、卒業後は父の小さな会社で事務の手伝いをすることに決めていたから、ほかにすることもなかったのだ。

 先輩は歓迎するふうでもなく、迷惑がっているふうでもなく、とにかく淡々としていた。

「油の量が足りなくて、筆が洗いにくいとき、どうすると思う?」

 先輩があたしに質問したことがある。

「油を、足すんじゃないんですか?」

「油がたくさんあればそうするけど、手元にない場合」

「んー。石をいれて、油の水面をあげる?」

「近いけど、はずれ。水をいれるんだ。水は底に沈んで、油だけ上のほうに集まるから」

「へえ」

 水と油、という言葉を思いだしながら聞いていた。なにか続きがあるのかと思ったが、話はそれでおしまいだった。

「先輩はヌードとか描かないんですか」

 ある日そう言ってみたのは、先輩がどういう反応をするのか知りたかったからだ。先輩に裸を見せたいとか、それ以上のことをしたいとか、そこまでは考えていなかったと思う。心の底の部分ではそれを望んでいたのかもしれないけれど、意識していなかった。

「モデルになってくれるの?」

 先輩は軽い感じで言った。

「あたしなら、いつでもいいですよ」

 あたしも同じ調子で言った。

「僕のこと好きなの?」

「好きなんです。知りませんでした?」

「知ってた」

 さりげなく、ノリ良く話したつもりだったけど、やっぱり緊張したのか口の中がカラカラに乾いていた。なぜ乾いていることに気づいたかというと、突然キスをされたからだ。軽い口づけではなくて、慣れた大人のキスだった。

 でもそれから、あたしが先輩のためにヌードモデルになることはなくて、ちゃんとしたセックスは一度もしなかった。ちゃんとしてないやつなら、何回もした。

 美術室はさすがに人が来る可能性があるので、場所は人のあまり来ない階にある男子トイレの個室だった。カラフルな白衣を羽織ったまま学生服のズボンだけ下ろした先輩から、なめてよと言われたときも、あまりにも自然な頼み方だったので、そうするのが一般的なのかもしれないと思ってそうした。

 やったことがなかったし、先輩の指示のとおりに唇や舌を動かしただけだ。白衣から絵の具のにおいがした。先輩は自分でも腰を軽く動かしたりして、くぐもった声を出して、全身をふるわせて果てた。

 先輩はトイレットペーパーで、自分の下半身をぬぐって水に流して、さっさと出ていってた。絵の道具の片づけをしている姿のようだと思った。

 私は口の中のものを半分飲み込んでしまって、半分はトイレの外の水飲み場で、ブクブクうがいをしながら吐き出した。

 それからは毎日のように、キスをしたあとでトイレに向かうのが習慣になってしまって、いわゆる本格的なセックスに進化するのかと思っていたけれども、そうはならなかった。

 あたしは当時いつも、クラスメイトの、りさと一緒にお弁当を食べていた。晴れた日に屋上の、建物の影になっているスペースに腰かけて、こんな話をしたことがある。

「男の子がいったあとって、首のあたりで音がしない? ジジジジって」

「ジジジジ?」

「コージの場合、いっつも聞こえるの。ちょっと機械みたいな感じの音。恵も聞こえる?」

 りさはバスケ部の光司とつきあっていた。

「音って、どこから聞こえるの?」

「コージの首の、後ろあたり」

 あたしは先輩とのことを、りさには曖昧な感じで話していた。肉体関係はある、と言ってあった。

「そのジジジジって音聞くと、なんか安心するんだ。恵も今度気をつけて聞いてみなよ。あれ、コージだけなのかな……」

 先輩の首のあたりで音がするかどうかは、確認しようがない。そのとき、あたしは先輩の下にいるから。

 そんなことを相談したい衝動にかられたが、やはり言わないでおいた。悩んでいるというほどではなかった。ただ、不思議には思った。

 本格的なセックスを避けたい理由が、なにかあるのかもしれないと想像していた。たとえばだれかを妊娠させたことがあるとか……。

 ただ単に、口でされるのが好き、という性癖なのだろうか。

 先輩はあたしのことは好きではなくて、あたしは先輩のことが好きだから、その力関係があらわれているだけかもしれないとも思った。

 先輩は卒業までに油絵を着々と仕上げていき、白衣はますますカラフルに汚れていった。あたしは当たり前だけど、妊娠したりすることもなく、高校を卒業して仕事を始めた。

 先輩は私立の美大には合格したが、国立をめざして浪人している、という噂を聞いた。先輩本人からは音沙汰がない。

 

 健太くんと江ノ島のラブホテルに行った。

 きゃしゃだった先輩とは正反対で、全身たくましいのがまぶしくて、その裸をあんまりじっくり見られなかった。

 初めてだと告白されたので、あたしも初めてだと伝えた。

「痛かったら言ってくださいね、言ってくださいね」

 まじめに念を押されているうちに、痛くても絶対言わないようにしようと心に決めた。

 そしたら思ったよりは痛くなくて、けれど気持ちがいいわけでもなくて、自分の上にのしかかっている年下の男のことを、ぼんやりと優しい気持ちになって見た。

 こちらに気をつかいつつも、夢中になっているところが、いとおしかった。先輩は、絵を描くことに没頭しているときでも、無我夢中には全然見えなかった。

「恵さん……」

 あたしの名前を呼びながら、今、終わったらしい。あたしの顔の上に、彼の顔がある。

「健太くん……」

 あたしも彼の名前を呼んでみた。それから、りさの言っていたことを思いだして耳を澄ませてみたけれど、何も聞こえなかった。



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3(悠一)

 看板描きのバイトで近くまで行くことになり、この機会に中村先生の店に行こうと思い立った。

 中村先生は高校時代の体育教師で、僕は主に保健体育を教わっていた。体育の授業は、隣のクラスの男子との合同。

「……このような時期にちょうど性交をすると、さて、どうなるか?」

 という先生の質問に、

「やばいことになります」

 男子の一人がそう答えたら、

「ちがいます。おめでたいことになります」

 と真顔で訂正したりして、クラスをわかせていた。そのころ先生は結婚を控えていた。からかい半分に婚約者とのセックスの頻度を質問されても、けっして完全無視せず、

「先生は、もう若くないので、時々です」

 と照れながら答えていた。当時まだ二十代なかば、今の僕と同い年くらいだったはずだ。

 放課後に柔道着の前をはだけ、汗だくになって肩で息をしている先生を見たことがある。そのとき相談しなければならない小さな用事があったのだが、あまりにも激しい闘いの直後みたいな様子に気おされて、話しかけられなかった。

 先生は子供のころ、肥満児で運動がまったくできなかったという。思春期になって急に痩せ始め、じつは運動神経がかなり良いということが判明、嬉しくて嬉しくて体育教師になってしまったと話していたことがある。昔も今も運動が苦手な僕は、そのエピソードが大好きだった。みにくいアヒルの子みたいで。

 教師時代の先生はいなせな板前みたいな風貌だったから、高校を卒業してすぐ「中村先生が実家の寿司屋を継いで板前になった」という噂を聴いたときには爆笑した。でも、調べたら噂ではなくて本当だったのだ。なんて面白い人生を歩む人なんだと嬉しくなった。

 その店は日暮里という、山手線にありながらほぼおりた記憶のない駅から、徒歩五分の場所にあった。インターネットで調べておいたし迷うことはなかったけれど、仕事帰りの洒落っ気のない格好で、のれんをくぐるのには勇気が必要だった。

「らっしゃい!」

 きっぷのいい挨拶は、ああ、中村先生だ。顔の印象はそんなに変わっていない。ただし体型は、重量級の格闘家のようになっていた。白い割烹着が柔道着みたいだと思った。

「予算はビール代込みで一万円くらい。とくに嫌いなものはないので、おまかせします。好きなものはウニです」

 お店紹介のサイトに書いてあったとおりに、予算や好き嫌いなどを伝えた。

「わッかりました!」

 元気よく「板前さん」が言う。この店にはかつての教え子たちがよく来るらしく、先生は「先生」と呼ばれることをいやがっている、とインターネットに書いてあった。自分が教え子のひとりであることは、最後まで明かさないつもりだった。

 けれどもカニの味噌汁と生ビールを注文して、初鰹、タコ、シャコ、と食べたあたりで突然、

「うちの高校の卒業生だよね?」

 と、先生のほうから切りだしてきた。

「……よくわかりましたね。平中です」

 覚えられていたことが、本当に意外だった。

「わかるよォ。だって『先輩』だろ? 全然変わってないし」

 先輩、というのは僕のあだ名。高二のころ学校へ行くのが突然いやになって一年留年してから、一つ年下の同級生にそう呼ばれるようになった。

「先生も変わってないですね」

 そう言いつつ少し嘘ついたかと自分で思う。

「仕事変えてすぐ、でっかくなっちゃって。でもなんか先輩も体、でかくなってない?」

 じつは先生の言うとおりで、腕の太さは今、高校時代の倍くらいある。

「筋トレやってるんです。加圧トレーニングってわかります?」

「わかるわかる。芸能人がよくやってるやつだろ。先輩が加圧トレーニングかァ」

 先生は話しながらも手際よく寿司を握る。アオリイカ、キス。

「モテたくて、最近始めたんですよ」

「モテたくて、って……。先輩、高校時代からモテてたじゃん。かわいい彼女いたよね?」

「いえ、……ああ、はい」

 妙な返事になってしまった。彼女、と呼ぶことを恵はゆるしてくれるだろうか。恵に告白されたとき、女の子とも関係を持ってみたい、という好奇心に負けてしまった。むろん、いやがられたら無理強いはしないつもりだったけれども。相手の好意につけこんでいただろうと言われたら、返す言葉はない。それなりに後ろめたさを感じてはいた。まぁ、身勝手な、つきあい方だった。

 アジ、アワビ、大トロ。本わさびをつかっているという「わさび巻き」は初めて食べた。

 最後に好物のウニをゆっくりと食べたとき、それまで先生の働きぶりを見るのに夢中で、よく味わっていなかったことを初めて自覚した。濃いお茶をもらって、会計をした。勉強しといたからね……と、やや多めにおつりを渡してもらったとき、数秒感ふれた先生の手はひんやりしていた。

「先生、お元気で」

 さりげなく手を差し出せば、握手ぐらいしてくれたかもしれない。一度くらい先生と腕相撲でもして、負けてみたかったなと思いながら、のれんをくぐって外に出る。予報どおりの雨が降り始めていて、折り畳み傘をひらく。

   

 山手線で新宿へ。南口から歩いて二丁目に着く手前。三丁目の細長いビルを階段で四階までのぼると、カウンターに七人もすわれば満員状態になる小さな会員制バーがある。街灯に照らされたケヤキの大木の若葉が、大きな窓の向こういちめんに映えて、きょうのような雨の夜はとりわけ美しい。平日でまだ早い時刻だからか、客は僕一人だった。

 年上だが若くて男前のマスターはピアノ弾きで、彼にはハンサムな歌うたいの恋人がいる。つみまは小皿にいれたミックスナッツ。ドイツの薬用養命酒みたいな酒「イェーガーマイスター」のコーラ割りを頼み、日暮里での出来事と高校時代の思い手を、かいつまんで話してみた。

 僕が二丁目に初めて足を踏み入れたのは高二の不登校時代で、結果的には二丁目通いがプラスに作用して、また学校に行けるようになった。もともとゲイにうけるタイプの顔や体つきではなかったものの、年齢が若いというだけでちやほやされて、週末は楽しかった。

 ゲイは経験人数が多い。異性愛の男はプロでもないかぎり、四桁の相手と肉体関係を持つことは難しいだろう。こっちの世界では出会いと別れをくり返していれば、平気でそれくらいの人数の相手とつきあってしまう。

 ゲイと聞くとハードな性行為をイメージする人もいるだろうが、僕はいわゆるヴァニラと呼ばれる、軽い性的接触にしか興味がないゲイだ。せいぜい口をつかう程度の。

 それでも「デビュー」してすぐに、けっこうな数の相手と関係を持った。当時は引く手あまたで、一方的に奉仕されることが多かった。年を重ねるにつれて、そうでもなくなった。こっちの世界で最もモテるのは、昔の中村先生みたいな、筋肉質の体育会系。次にモテるのは今の中村先生みたいな、むっちりとした体育会系だ。

「平中さん、女の子とつきあってたこと、あるんですね」

 マスターの目が、明らかに驚いている。

「んー……。つきあってたっていうのか……」

「偽装交際ですか?」

「いや、好きだったんだと思うよ、かなり」

 言葉にしてみると、ほんとうに好きだったような気がどんどんしてきたけれど、それは男を好きなのと同じように好きなわけではなくて、そのへんは言いわけする気もしない。

 かわいそうなところが、かわいいと思っていた。

 自分を全肯定してくれる他人。たぶん生涯において、あれだけ親密な関係を築ける異性は、もうあらわれないだろう。

「相手の子に告白されたんだ。でも男が好きだとかは最後まで結局言わなかった」

「ひどい男ですね……」

 そう言うマスターの口ぶりに、責める調子はもちろんない。けれど真にひどい男だったのかもしれないと、本人が一番思っている。当事者である恵には、非難されてもいいと思う。第三者には口を挟まれたくない気持ちも、少しある。

「彼女は僕に興味があって、僕のほうも彼女のことを気にいっていたけど、じゃあ、どういうのが一番ふさわしい関係だったと思う?」

 と、きいてみた。

「好きといっても欲情はしないんでしょ?」

「しないけど、好きだったよ。今だって、べつに欲情しない相手と、するときはするし。男相手の場合も、一方的に奉仕させるのが好きだし」

「ひどすぎて、お話にならないですね……」

 そこまで話したとき、ほかの店で相当飲んできたらしい男女五人組が、わいわいと店に入ってきたので会話が途切れた。

 僕が階段にある共同トイレで用を足して、カウンターに戻ると、マスターはカウンターの裏に仕込んであるピアノを弾き始めた。お得意のクラシックではなくて、昔なつかしい童謡のメロディ。僕へのメッセージかなにかなんだろうか。雨はやんだらしく、四階の窓から見下ろすと、道行く人はもう傘をさしていない。会計を済ませて、帰ることにした。

 おてて

 つないで

 のみちを

 ゆけば

 童謡の歌詞を思いだし、口ずさみながら長い階段をおりる。あのころ恵と男子トイレの個室にこもりながら、汗の光る中村先生の裸体を毎日のように想像していた。一度でいいから、ごつごつした広い背中の先生と、肩を組んで歩いてみたかった。そういえば恵と僕も、振り返れば一度も手をつながなかった。

 永遠にむくわれない片思いのかたちを、僕はだれかと共有していたかったのか……。そんな感傷が酔った頭に浮かんだけれど、それが正解というわけでもない気がした。


(了)

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作中の童謡『靴が鳴る』(作詞=清水かつら、作曲=弘田龍太郎)の歌詞は、原文の音をひらがな表記させていただきました。

本作を気にいった方におすすめの拙著は掌編集『すれちがうとき聴いた歌』(絵=會本久美子、リトルモア刊)です。



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