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文字が読めないと世界はどう見えるのだろうか。から始まった疑問。


私が一番お世話になったお婆ちゃんは、文字が読めなかった。
学校には通っていたみたいだし、お婆ちゃんの兄姉は全員読み書きができる。それに会話をしている限りは、頭が悪いわけではなさそうだ。

むしろお金に関する計算能力は高く、仕事など、何でもすぐにできるようになることや、周りとの人間関係を狡猾にコントロールしている様子を見ていた感じでは、知能指数はかなり高い方だと思われる。

やはり大正生まれで、度重なる戦争などが大きな要因だったのだろう。
幼い頃からずっと働いていたみたいだし。
また、勉強が極端に嫌いだったという話も何度か聞いたような気がする。


私はお婆ちゃんのこともあって、生まれてからずっと、文字が読めない人がいるのは当たり前だと思っていた。
成長してからも同じで、その事実を普通に受け止めていて、気にするようなこともなかった。


今回、こうして文字を読めないことに関して思慮を巡らせるようになったのは、noteで書く記事について考えていたからである。


文字は私達の生活に欠かせない、もっとも基本的なツールである。
最近のテレビは、テロップ表示が当たり前だ。
視聴者にわかりやすくするためなのだろう。

しかし私のお婆ちゃんのように文字が読めなければ、テロップなどというものは、意味不明な記号の羅列でしかなく、邪魔なものでしかない。

そう考えると、インターネットも同じだ。
識字が可能であることを前提にしたサービスとなっている。

視覚障害者のためのシステムは構築されてきているようだが、文字を読めない人に対する配慮は、まったくされていないような気がする。


ここまで考えた時、私はふとした疑問を抱いた。

現在、いわゆる社会的弱者と呼ばれたりすることもある人達の一部は、様々な権利を主張している。

中にはギャンブル依存症など、現時点ではどうかわからないけれど、きっかけだけは間違いなく本人の責任だと思われるようなものでさえ、他の誰かに支援してもらえるのが、社会では主流になりつつある。

しかし一方で、識字能力を持たない人達がそのような権利の主張などをしているのを、私は知らない。

文字を読めない人達はそういった活動をしていないのだろうか。
それとも文字が読めないから、そういう方法を思い浮かぶきっかけを得られないのだろうか。
広報を含めた活動の展開が難しいのだろうか。
もしくは、文字が読めないのは自分の責任だと、最初から諦めてしまっているのだろうか。

しかし私は思う。ギャンブル依存症を他の誰かによって支援してもらえるのであれば、むしろ教育の機会がきちんと与えられず(仮に本人や親が教育を拒絶したのだとしても)、国語や算数など、基本的なものを学べなかった人達の保障や、援助の体制こそ、国や地方自治体や各種支援団体は考えるべきなのではないだろうか……と。


ただしこれは私の本心ではない。

ギャンブル依存症の人達への支援も、ある一定の段階まで進んでしまった場合は、必要だと私は思う。

ただ、ギャンブル依存症の人達よりも、識字能力を持たない人達の方が、もっと優先するべきなのではないかと、あくまでも一つの意見を口にしているだけだ。

要するに、国や地方自治体や各種支援団体の援助するべき優先順位が、色々おかしいのではないかと、遠回しに指摘したわけである。


さらに批判を覚悟で言わせてもらおう。

国や地方自治体は権利を主張する人達の意見に耳を傾けるだけではなく、権利を主張しない人達も含めて、世の中にもっと、優先して支援をするべき立場であったり、保障をするべき境遇の人達がいないかどうかを、きちんと調査するべきなのではないだろうか。

極論的に、『◯◯は権利を主張しないから放っておいていい』という行政にとって都合のいい考えが、いわゆるゴネ得の社会を助長させている可能性があるように、私には思えてならない。

むしろ本当に支援するべき人達の存在を、行政の側からきちんと提示することによって、現在、国や地方自治体に支援を求めているの個人や団体の中に、溜飲を下げる立場の者達も現れるような気がしている。

そして国や地方自治体からの情報でそういう人達のことを知った一部の民間人によって、本当に現在の日本に必要な支援団体も、誕生するのではないだろうか。






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