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アクセシビリティに向き合いながら考える私たちの「特権」の話


こんにちは!ご無沙汰しております。

バタバタしているうちにあっという間に夏になり下半期に突入してしまいました。

久々なので書きたいことは色々とあるのですが、言語化して整理したいと思う話題から書いていこうと思います。





アクセシビリティについて考えるようになり、目に触れる機会が増えた「特権」「差別」についての話です。
熟語を見ると小難しい話に見えるかもしれないですが、
あらゆる人にとって身近な話題だと思うので、気になった方は読んでみてください。



私たちが持つ「特権」とは

「特権」という言葉を聞いて、どのような印象を持つでしょうか。
凄い権力者を連想したり、歴史の勉強で聞くような語感だったりして、あまり縁のない言葉に感じたかもしれません。

これから書く特権(Privilege)とは、
「ある社会集団に属していることで労なくして得る優位性」のことを言います。
これでもなんだか難しそうですね。


「労なくして」というのは、=「努力せず自動的に得られる」
という意味です。
社会生活をする中で無意識のうちに受けている恩恵のことを言います。

無意識なので、個人が特権を自ら取りに行ったり、「誰かを特権から排除しよう」としているわけではありません。
当然個人の意思では差別していないですが、そういった人々の無意識の積み重ねで維持されている差別を「構造的差別」と言います。


なぜこの話を書くか

一番は自分の中で今考えていることを整理するため、ですが、それ以外では以下の2点があります。

①ウェブアクセシビリティ向上を推進する一つの理由と言えそう。

ウェブアクセシビリティはそもそも「障害がある人に限らず全ての人に恩恵がある」ものですが、
D(E)&I※の観点から見ても、経営上、企業にとって長期的に利益があると言えます。
※Diversity,(Equity) & Inclusion

「構造的差別」の解消と、D&Iに取り組むことの関連性、重要性は下の記事に詳しく書かれています。


このような観点からも推進できると、よりアクセシビリティや差別解消の重要性が伝わりやすいんじゃないかと思っています。

②ウェブアクセシビリティと「構造的差別」解消への関心を相互に深めていけるといいんじゃないか、という思い

ウェブアクセシビリティ向上に取り組んでいる人にもさまざまな視点があって、必ずしも「差別」「格差」というトピックに関心があるわけではないと思います。

技術的な面白さから取り組んだり、
法改正や業界の注目度の変化でアクセシビリティに関心を持ったりさまざまきっかけがあると思うので、全ての視点を全員が持ち合わせる必要はないですが、
自分の視点も置いておくことで、いろんな人が関心をもつきっかけを増やせたらいいなと思います。

また、

  • ウェブアクセシビリティに関心を持つ→構造的差別にも目を向ける

  • 構造的差別の当事者として考えて→アクセシビリティ向上にも取り組む

のような形で、
それぞれの方向から関心を持つ人が増えていけば、差別の解消とアクセシビリティの向上をより持続的に進めていけるのではという期待も込めています。


自分が無意識に受けている恩恵

冒頭で、「特権」とは無意識のうちに受けている恩恵と書きました。
このイメージについて、以下の記事にわかりやすく解説されています。

“この『特権』は、既に持っている側には意識しづらく、「持っていない人にははっきりと感じられるものだ」”

差別や人権の問題を「個人の心の持ち方」に負わせすぎなのかもしれない。 「マジョリティの特権を可視化する」イベントレポート

わかりやすくたとえるなら、“自動ドア”。自分が特権を有する側に属していれば、前に向かって進みたいときドアが勝手に開いてくれるし、ドアの存在そのものに気づかないことすらある。
ところが、特権を持たない人には同じドアが自動で開かない。他の人が横でスムーズにドアを通り抜けていくさまを見ながら、「これを自分の手でこじ開けていかないといけないんだ……」と思い知らされてしまう。

差別や人権の問題を「個人の心の持ち方」に負わせすぎなのかもしれない。 「マジョリティの特権を可視化する」イベントレポート


この記事で話されている出口さんは「マジョリティ」を「特権を持つ側」として呼び、特権性をマジョリティ性、特権がないことをマイノリティ性として整理しています。
また、特権を持つ側か持たない側か、と単純に分けられるものでもなく
マジョリティ性とマイノリティ性を両方持ち合わせる人も多いと言えます。(インターセクションという概念があるそうです)

自分の中のマジョリティ性とマイノリティ性を知ることから、
差別に気付きやすい観点、気付きにくい観点はどの部分なのかを考えることが「構造的差別」を意識する第一歩と言えそうです。


上で紹介した記事内には、
性別や学歴など差別につながりやすい属性について、マジョリティ、マイノリティどちらに分類されるかを示した表があったので、私自身にも当てはめて考えてみました。

見てみると、性別が女性なのでマイノリティ、所得はどちらでもなく、それ以外がマジョリティ側に当てはまりました。

学歴については、今の日本で「高学歴」とされる経歴を持つ特権と、大学に入る前に「受験の情報を知る機会や勉強できる機会があった」特権と、
二重に特権的な立場であるように思います。
家事や家族の世話などに追われず、道具も十分ある状態で集中して勉強できる場があったのは恵まれていましたし、
教科書を読めて、学校の授業に問題なく参加できたことも特権と言えます。
また、首都圏に住んでいたおかげで経済的な心配をそこまですることなく、東京都内の大学に通えたので、住んでいる場所も影響していたと思います。

考えてみると、「首都圏や大都市近辺に住んでいるかどうか」も、マジョリティ性/マイノリティ性に当てはまる部分かもしれないですね。

逆に自分のマイノリティ性についても考えてみると、(個人的に直接の差別を受けたことは少ないものの、)構造的に女性に対する抑圧が解消されていないなと感じることは多いです。

このように自分自身の属性を考えてみて、
マジョリティ性が多いと気づいた人にとっては「差別に加担している集団に属している」と言われたように感じてしまったり、場合によっては抵抗感もあるかもしれません。
ですが、特権を持つ側がそれを自覚することは、「差別の原因は特権を多く持っている誰かにあるものだ」という個人の問題として捉えるのではなく差別を作り出す構造全体に目を向けるように変化していくために必要なことなのだと思います。

「障害の社会モデル」も、困りごとの原因となる障害が個人ではなく社会にあると捉えて、社会の仕組みを変えていくという考え方なので、近しいものと言えます。
また、特権が多い=その人が生きやすく楽をしている、という意味にもなりません
あくまで人種など1つのアイデンティティに限定して見た時に、無自覚な恩恵を受けている側かどうか、の話でしかなく、それぞれの人の生きづらさをそれだけで測ることは当然できないでしょう。

これは個人的な考えですが、自分の特権に気づいたとしても個人として罪悪感を持つ必要はなく、気づいていなかった特権の多さへの「理解」を進められれば良いのかなと思っています。


ウェブアクセシビリティの観点でも「特権」について考えてみると、

  • 画像が主体のウェブサイトであっても、htmlで構築されているサイトと変わらず情報を理解できる。

  • ドラッグして操作するセキュリティ認証を使用でき、速やかにチケットの購入などの手続きを終えられる。

  • マウスとキーボードを使い分けながら操作できる。

  • 重要な注釈が小さなテキストで書いてあっても拡大することなく読める。

など、日頃PCやウェブサイトを利用する中で、健常者であることによる無自覚の特権はたくさんあります。
健常者にとっては無自覚=当たり前にできることが多く、まさに「持っていない人にははっきりと感じられる」特権と言えますね。


また、今はさまざまな恩恵を受けていても、身体の状況や環境によってマジョリティ性とマイノリティ性のバランスが変わることは多々あります。
日本では日本人という人種であることがマジョリティになりますが、他の国にいるときは必ずしもそうではないです。

アクセシビリティや心身の障害に関連する部分では、
加齢などと共に心身の状態が変わり、それまで障害として感じなかった部分が「障害」となることもあるでしょう。
細かい字が読みづらくなるといったことも代表的ですし、何らかの理由で怪我をして片手が使えなくなった場合、(一時的でも)両手が必要な操作が完了できなくなります。

マジョリティとして構造的差別の当事者の意識を持ちながら、
同時に誰もがマイノリティ側になる可能性もあると考えると、より自分ごとのように感じられてくるのではないでしょうか。


特権を自覚することで何が変わるか

最後に、私たちが「特権」を自覚することがなぜ大事だと思ったのか、何が変わるのかまとめていきます。

①差別をなくすための共通認識ができる

おそらくほとんどの人は、差別をしたい!という気持ちは持っておらず、差別は解消するべきだと思っていると思います。
ですが、そう思っていても、格差是正の取り組みを「特別扱い」と言ったり、キャリアアップの機会がない人に「努力や能力が不足しているからではないか」と思ってしまう人もいるでしょう。
これは自分達が恩恵を受けていることに気づかず、
自分の努力のみで生きてきて今の立場を獲得した、という思い込みがあることが原因だと言えます。

特権の存在に気づくことで、
自分が構造的差別を受ける側にいたら、それまでと同じ労力で同じように生きてこられただろうか?と考えるなど
(自分個人ではなく)自分の置かれている"立場"が差別に加担しているという前提を持ってマイノリティ側の声に向き合えるようになるのではないでしょうか。

また、引用した記事にもありますが、差別に対して誰もが中立ではなく当事者である、という前提があることで、「自分たちの問題」として向き合える可能性が増えるのではないかと思います。

②差別や生きにくさ・新しいアイディアについて意見しやすい土壌ができる

同質性が高く、特権を持つ人が大半を占める組織では、

  • 差別や生きにくさを感じていてもそのことを伝えづらい

  • 伝えることで不利益を被ることがある

と感じるなど、何か意見を言うときの心理的負担が大きい状態になっています。

そうなると、差別が組織の中で可視化されず、「構造的差別」がいつまでも続いてしまいます(だから"構造的"と言われるのですが)。
また、そういった組織ではマイノリティが発信する新しいアイディアも受け入れられにくいため、限られた意見しか集まらず、事業を柔軟に拡大していくこともできません。

多様な意見が出てきやすい場を作るには、
特権を持つ側が、自分達だけ受けている恩恵がある、という前提に立ち、生きにくさの訴えに対して「甘えだ」「気にしすぎだ」などと個人の問題に還元しないことが大切そうです。



ここまで書いてみて、私の中では、「特権があるという前提を共有する」ことがそれぞれの生きづらさを減らす上で一つ大事なポイントなのかなと思えてきました。

健常者としてウェブアクセシビリティに向き合う上でも、社会人としても持ち続けたい観点だなと改めて思います。



また長文になってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!

下半期はもっとこまめにデザインのことやアクセシビリティのこと、考えていることを書いて形に残しておけたらと思います。

では🐾

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