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人生の後悔=仕入れ、が、ひとつ増えた本。#会って、話すこと。

誰かと会って話している時、そろそろ帰ろかという流れになった途端、私の向かい(または隣り)にいる人が、

「あんな」

と、声のトーンを低くして、話し始めることがある。

あんな、から始まる話は、だいたいそれまでの内容がぶっ飛ぶような内容だ。

ええーーー!
この3時間(または6時間)なんやってん!
はよ言いいやー!

そう言いそうになるが、だいたい私はぐっと飲み込み、うんうんと聴き始める。

この本もそんな感じで、残りページが後5ミリ幅になった時、急に声のトーンが低くなった。


それまで順調にページの上隅を折り曲げながら読み進めていたのに、低いトーンになってから、ページを捲る速度が落ちた。眼は文字を追うが、私の頭の中では30年前の場面が再生されて、同じページに留まり先に進めないのだ。
なんや涙まで出てきたで。
Amazonレビューには、『泣ける』『泣いた』なんて(ほとんど)書いてはらへんかったで。おかしいな。

人は、自分と会話する。過去と会話する。死者と会話する。書物と会話する。(p.240)

読みながら私は、亡くなった祖母と、30年前の出来事と会話を始めていた。


11月の祝日。自宅から自転車で15分のマンションに住む祖母のところへ、久しぶりに顔を見せに行った。社会人になって8ヶ月。忙しいのを言い訳に、私は祖母の家から足が遠のいていた。

10畳一間の小さなマンションで祖母とお茶を飲んでいたら、突然祖母が言い出した。

「ラッコいうのんが須磨の水族館に来たらしいな。
あんた、見に行きたないか?」


いや、別にそんな見に行きたないし。
「そうか」
(5分後)
「ラッコ見に須磨に行かへんか」

そこでようやくわかった。
祖母は須磨に行きたいのだ。
理由はわからないが、とにかく今、行きたいのだ。
だが、一人では行きづらい。
仕方ない、付き合おう。

おばあちゃん、ラッコ見にいこ。

祖母と私は久しぶりに一緒に電車に乗った。

電車に乗ること約1時間。
須磨駅に着くと、祖母は水族館とは逆方向へ歩き出した。

「水族館の前に、ちょっと寄りたいとこあるねん」

普段あまり「これがしたい」「ここ行きたい」と言わない祖母が、ここまではっきり言うのは珍しい。
私は黙ってついて行った。
商店街を歩きながら、突然祖母が振り返って話し始めた。

おばあちゃんな、おじいちゃんと結婚してすぐ、この辺に住んでたんや。
あの頃が、人生でいちばん幸せやったんや。

え?
おばあちゃん、なんで今それ言う?
しかも、新婚時代がいちばん幸せって、幸せのピーク設定早過ぎへん?
須磨の後、神戸のお屋敷に引っ越して、うちのおかんやおじちゃんたち生まれて、乳母までいる生活してて、それよりも幸せやったん?

私は祖母にききたいことだらけだったが、なぜか何も聞けなかった。
気の利いたことばも返せなかった。

そうやったんや。

それだけ私が呟くと、二人でラッコを見に須磨水族館へ向かった。

違う人と、同じものを見た時、二人のあいだに、なにかが生まれる。(p.242)

あの時、祖母と私の関係が変わった気がした。
そうか、あれは『なにか』が生まれていたんだ。祖母と私の間に。

日が落ちて暗くなったころようやく帰ってきた私に、「えらい長いことおばあちゃんちおってんな。なんかあったんか?」と母がきいた。

おばあちゃんと、須磨水族館にラッコ見に行ってた。

それ以上は母に話したらあかん気がした。祖母と二人で見た、ラッコではない風景と、祖母が恥ずかしそうに、でも幸せそうに微笑んだことを、私は誰にも話さなかった。

話す「わたし」と「あなた」の間に、意味がないことでもいい、意味があることでもいい、「なにか」が「発見」され、「なにか」が「発生」する。その「なにか」こそ、人間の向こうにある「風景」であり、それを共に見たことが人生の記憶になる。だから人は、会って話すのではないだろうか。(p.263)

あの時、祖母が「吐露」したこと。それを聞いた時、私と祖母に「なにか」が「発生」したこと。須磨の商店街、祖母の思い出という「風景」を共に見たこと。
それは私の人生の記憶になっていたということ。
この本を読んでそれがわかり、じっと立ち止まってしまった。
それは、「私、おばあちゃんにええことしたやん」という思いからではない。同時に、猛烈に後悔する出来事、いや、この本を読んで、ひとつの思い出が後悔になったからだ。

一緒に須磨に行ってから1年半後、祖母は亡くなった。
亡くなる日の午後、私は祖母が入院する病院へ行き、久しぶりに祖母に会った。静かに寝ている祖母の横で本を読んでいたら、祖母が目を覚ました。

「ああ、あんた来てたんか」

うん。

「外、雪、降ってへんか?」

え? 雪?
そんなん降ってへんで。今6月やし。

私が答えると、祖母は小さな声で、
「そうか」
と言い、また眠ってしまった。

その後家に帰ってすぐ、病院から連絡があった。
両親と駆けつけた時には、祖母は亡くなっていた。

祖母が最後に会話した相手は、私だった。それなのに、祖母の最後の言葉を私は否定で返してしまった。祖母の隣に立ち、同じ風景を見ようとはしなかった。

おばあちゃん、雪見えたん?

私はそう言うたらよかった。
雪なんて降ってないで。今、6月やし。
なんで、そんな言葉しか返せへんかったんや。

30年近く、そのことを後悔も反省もしていなかったのに、この本を読んで、私は猛烈に後悔することになった。多分これから死ぬまで後悔していくであろう。
でも、後悔することになったことを、後悔はしていない。

自分が心から好きななにかであったり、自分自身の遠い記憶であったり、そんな遠い日の「仕入れ」がだれかの記憶と響き合うことなのだ。(p.229)

私はおっきな「仕入れ」がひとつできたのだ。


祖母とはもう、会うことも、話すこともできない。

いや、そうではない。

人は、自分と会話する。過去と会話する。死者と会話する。書物と会話する。(p.240)

田中さん、そう書いてはるやないか。
久しぶりに、来月京都へ墓参りに行く。
祖母と会って、あの時のことを話してこよう。

そして。
去年買って『積読』になっていた、こちらの本とも会話してこよう。

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美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。