【背景、あの時のわたしシリーズ】いつだって全力!が好きだし正解だと思っていたわたしへ
今回の「背景、あの時のわたし」はどんな時も全力!だったあの頃のわたしに向けて書きたい。スポ根、松岡修造さん的な(これはあくまでもイメージ)スタイルで、勉強とかスポーツだけじゃなく人間関係もそうだった頃のわたしへ。そして、わたしと同じようなスタイルであり、かつ、それが故に生傷が絶えないあなたにも。
気がつけば「いつだって一生懸命がいい」という考えが当たり前だったので、なにがわたしをそうさせたのかはわからないぐらい。
小学生の頃からやってたスポーツ、その環境の影響だろうか?
一度やりたいと自分で決めたものは決して辞めてはいけないという家族のルールだろうか。教育か。
ただ、それに疑わずむしろそれが良い!それが成功の秘訣!とノリノリだったので、それが故に不幸だったということでもなく、わたしの質に合っていたことだったかもしれない。
ただ、そのスタイルに疑問を投げかけてくれたのは中学生の時の顧問の先生だ。
スポーツ漫画の主人公のように「自分はまだやれるはずだ!」「限界突破!」な姿勢でバレーボールをしていたわたしに、日誌を通して「過信っていう言葉を知ってる?」という痛烈な問いの投げかけをしてくれた人である。
「過信」
その言葉を知らなかったわたしは、国語辞典を開いて調べた。何度も読み返した。
またあるときは、スパイクを全力で打つわたしに「100%の力を込めたら決まるっているルールがあるわけじゃない。フェイント使ったり、スパイクの方向性を変えたりいろいろあるやろ」と、とんでもなく疲弊感を感じるため息をつきながら進言してくれた。
このエピソードだけでも、当時のわたしのなんというか。。。
ピュアさなのか、ストレートというか馬鹿正直というか、視野が狭いというか、馬鹿というか脳筋というか、力を込めたら打開できるというドラゴンボールの影響なのかどうかわかんないけれども非常に「全力」という切り札を常に切っていた感が伝わるのではないかと思う。
顧問の先生、本当に今なら言える。お疲れ様です。言いにくいことも進言して下さったこと、本当にありがとうございます。
先生と一緒にいる時には落とし込めなかったけれど、今ちゃんとあの時の言葉が刺さって、効いています。
そんな先生との出会い、問いの出会いで
わたしは自分自身に違和感を感じていくようになる。
今の自分がこの時の感覚を表現するならばそれは「違和感」の中でも
自分の視野や世界、表現方法の幅が広がる、「拡大の力」の感覚なんだよ、とあの時のわたしに囁いてあげたい。
そこで急速な変化を遂げるかというと遂げないのがわたしだ。
ほんの少しだけ軌道を変えたり、力を抜いたりする選択肢を覚えたけれど
相変わらずそれはわたしにとっては「邪道」のようなものだった。頑固なのである。
けれど「違和感」と「他の選択肢がある」ということはわたしの中にずっとあった。
わたしの中で「全力がいい」はたくさんの成功体験、あるいは成功らしき体験をもたらしてくれた。
なのでより強固にもなっていった。自分の中の「うまみ」を味わえる方程式のイコールの先が「全力で頑張ること」だったのである。(もちろんこの頑張る、にも内訳がたくさんあるが、そこに集約されるのはいつもパワーは全力なのだった)
では今、そんなやり方だったわたしにわざわざ手紙のようなものを書きたい自分はどうなのか、というと。
「全力がいい」に条件がついた。
「わたしがやりたいことに限り、全力がいい」というスタイルである。
なぜかというと「全力」「真っ直ぐに!」という生き方や取り組み方はシンプルにものすごく疲れる。ほんとに疲れる。
なんたって全力だから。余力はそこに残らないのである。
そうすると、回復が必須になる。年齢を重ねるとそのやり方にコストを感じるようになってきて、さらには非効率ささえ感じるようになったことが大きい。
第二に、「全力」は生傷が絶えない。
誰かの趣旨や信念にぶつかるリスクが高く、また、多くの人に「真っ直ぐ全力」が噛み合わないこともある。ぶつかり合う先の交流の深みは、噛み合う人でしか活用できないことを生きていく中で知った。
そして、噛み合わない傷はとても辛いことも知った。
全力であること時に戦闘体制であることだ。
戦うことに、狂戦士はついに疑問を持ち出したのである。
たくさんの成功体験をもたらしてくれたそれの、しんどい部分の経験もしっかり積み重ねてきたことで現在の変化は起きている。
ずっと「違和感」だった邪道とまで感じていた生きるスタンス(姿勢、取り組み)の選択肢が、時と場合によっては自分を救い、癒してくれることも認識し、体感し、本当の意味で「しり」、納得し、旨みをもたらしてくれることを受け入れた。
頑固な自分のための、必要プロセスを経ての今は
「力を入れたい時には全力でやってみる」
「力を抜いて取り組んでもいいと自分が思えることは60%以下で取り組んじゃう」
「余力があることは豊かな生活の要素」
といういろいろ取り入れ塩梅MIXスタンスで生きていかせてもらってます。
そしてまた、生きるレイヤーが増えるごとにこの取り組み方も変化するという余地も入れてる感じね。
変化すること、自分の大事にしていたことが変わっても良いこと、ガチガチに固めず作り上げていく楽しさを知ったことが大きな影響を与えている気がします。
あの時の全力で生きていたわたしに言えることがあるなら
「飽きるまで、飽き飽きするまでやり通したらいい」
ということ。もし同じような生き方の方がいて、今がとても豊かで問題ないのであれば、そのままでいいと思う。
あの時のわたしも、このスタンスだからできたこと、出会えた人、体験できたことたくさんある。この生き方は正直でわかりやすくて、誠実で、ピュアだ。もちろんデメリットもあるけれど、けれど正解でもないことさえ知っていればいいんじゃないかと思う。
でも、この取り組み方で不和が起きてきたり、体に違和感があったり、モヤモヤするのだとしたら。
変化を望む自分がいないか、見つめてみてほしい。
今の生き方に飽きがきていないか。
飽きがきていたら、個人的な考え方だけれど、ほぼ確定で「変化ができるパワー」が満たされている。そして今まではそうだった、が噛み合わない自分もいつかは生まれてくる。変化は常々ジリジリと何かしらで起こっているから。
自分で感じて、キャッチして、選んで、選択した先に
新しい可能性が生まれていく。
そして過去はたまたま今の自分にマッチしないだけで、もたらしてくれたことは有り余るほどにある。
その可能性が今の自分にさえあるということを知っておいたら、何事にも全力でしか取り組めない自分はむしろ、「取り組める」ことを知っている側の人間なのだと誇りに思って進んでいけるのではないかと思ってる。
あの時それしか知らない、選ばない勢いで100%以上の力を込めて何かしらに取り組んでいたわたしへ。そしてあなたへ。
あなたのポテンシャルは、ただ底にあるだけでドラマティックな存在だよ!でも、身体と心はくれぐれも大切にね!(どうしてもこれだけは言いたい老婆心)
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