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【祝千人】わたしがYouTubeを始めるまでの経緯 前編

 出来心、というべきなのかもしれない。でもそのときの私には、意思はおろか感情も何もなかった。身体が反射しただけだった。あたかもそれが、世界の意思であるかのように。
 緊急事態宣言下の終電、そしてその終点間際の車両には、ひと駅おきに目を覚ましていたやつれたサラリーマン、優先座席の隅で動画を鑑賞している女子大生、おそらく泥酔して気を失ったようにふかく眠りつづける男、そしてその隣に今日だけで五万スった私、の四人しか揺られていなかった。この異様さにもいよいよ慣れてきた頃だった。
 彼のスマホは手のひらから転がって、緑色の滑らかそうな座席で安らかに横たわって久しい。友人が多いのか微かなバイブレーションを断続的に起こしていた。そしてやたらと大きい真っ黒なバックパックが、口を開かせて膝と膝の間に挟まっていて、その口から二つ折りの財布が、薄汚れた床へ、こぼれ落ちていた。
 私は何駅ものあいだその小刻みに揺れ続ける丸みを帯びた財布を眺めていた。向かいのサラリーマンは目を覚ますたびにそれに目をやり、隣の彼は頭を垂らし続けた。私はスリの常習犯ではないし、スった五万を取りもどしたい訳でもなかった。そもそもその中に大した金額は入っていないだろう――その男はしばらく洗っていないであろうジーンズにシワが縦横無尽に寄ったただの白いTシャツで、なんのアクセサリーも身につけていなかったから――と思えたし、実際四千円しか入っていなかった。ただ私は、“借金”に代わる次の罪を求めていた。

(徐々に落下した声色を整える)

 終点のアナウンスが流れる。もはや女子大生までもがうつらうつらしていた。私はゆっくりと腰をふかく折り、全くの手早さをもたないでそれを拾った。そしてそれを借金の一部であったプラダのショルダーバッグに落とした。すとん。
 車両はゆるやかに減速をはじめ、そしていままでよりもすこしだけ雑に停車を完了させた。サラリーマンはそれで完全に目を覚まし、これまで通り目を落とし、存在していなくてはいけない財布の消失を認めた。私がその様子をじっと見ていたので、目が合った。それからサラリーマンは面倒臭そうな顔をしながら立ち上がり、私の前を通って開かれたドアから下車していった。すこし待って、駅員が廻ってくる前に私も下りた。
 改札を抜けて、いくつかの信号を渡って、コンビニで適当な発泡酒とチータラと金のマルボロの会計をしているときに、盗った財布を忘れていたことを思い出したが、当然のように自分の財布で払った。五千円が崩れたのをおぼえている。
 目にやさしくない眩しさのコンビニから目にやさしい夜のなかへふたたび包まれて、べこべこになった箱から一本抜いて煙を上らせながら、盗った財布の中身を覗いた。沢田俊輔。二十六才。免許証のほかにはクレカ、キャッシュカード、何枚かのポイントカードがカード入れに差し込まれていた。財布の丸みは大量のレシートのせいだった。そしてそのなかに紛れて、「連絡してね~」というのと一緒に連絡先が書かれたカードを発見した。字が下手な割に丁寧に書こうと試みたのがうかがえた。
 タバコを安物の携帯灰皿に突っ込んで、スマホにその番号を入力して発信した。そこにもやはり感情がなかった。それでもコールが続いていくうちに、捕まってしまうのだろう、とは思った。でも私にはいっそのこと更生が必要だった。それでまっとうな人間になれるのならと。

(ううん、と咳払いをする)

「もしもし」目の覚めた、はっきりとした声だった。
「あ、沢田さん、ですか」
「えっとはい、そうですけど」
「財布――」
「えっ拾ってくれたんですか!」
「いえ、はあ」
「いやあめちゃめちゃ困ってたんで超助かります、マジで」
「えっと、どうしますか」
「え? あっそうですよね……」
「いまどこですか」
「今、は蒲田駅の東口のファミマです」
「わかりました、向かいますね」
「いいんですか! クソ助かります、いやマジで、ありがとうございます!」
 近くなってからまた掛けると言い、通話を切り、また新しい一本に火をつけた。捕まったら当分吸えなくなるかもしれない。そう考えると、いつも以上に味が冴えた。なんとなくすぐ出発する気が起きなくて、縁石に腰を下ろした。水滴で濡れた発泡酒の栓を開け、チータラまでしっかり平らげてから、通りがかったタクシーを停めて反対側の東口に運んでもらった。その料金はもちろん自分の財布で支払った。
 ファミマの前で彼が立っているのはすぐに分かった。初めてこの街に来たかのようにきょろきょろと辺りを見回していて、落ち着きがなかった。きっと通知表に毎年そう書かれていたタイプだろう。ときおりスマホを確認しては私からの連絡を待っている風だった。
 沢田さんですかと声を掛けると、不安げだった表情はうそみたいに晴れた。犬みたいだった。それで母性愛がくすぐられることはなかったけれど。

(録画時間を見ると前編の半ばなのにかなり時間を食っていたので、すこし早口にする)

 彼は大げさなほど感謝の言葉を並べるので聞いていて疲れるほどだったが、財布を拾って深夜に届けてくれたとなるとそれも自然かもしれない、と今なら思う。
 たった四千円しかないくせに、彼はお礼に奢ると言い私をガストへ引っ張った。彼はピザを頼み、私は適当なサラダを頼んだ。彼は私が盗ったとはすこしも疑っていないようだった。後で聞いたところ、あんなに尽くしてくれたし、ファミレスでもいい人だとわかった、と言っていた。彼はまれに見るほどのバカだったのだ。
 私はまた別の罪の意識でもって、彼との意気投合を仕向けた。単純すぎる彼はたやすく釣れて、以後私に夢中になり、夜が明けるまで何かを話し続けた。その内容はまるきり憶えていないけれど、そのときの私ですらあやしい。
 ガストを出るとき、彼は今日は仕事を休むと言った。だから私もそうすると言って別れた。けれど私はいつも通り出勤し、いつも通りに仕事をした。それも贖罪のひとつだからだ。そしてさらなる贖罪の機会を、彼と出会って恋愛をするという長期的なそれを、手に入れることができた。それはいままで生きてきたなかで、二番目くらいに苦痛なことだった。

(ここまで語りきり、一度後付け音声の録音を止める。いっぺんに話すとなると、噛んだりして録り直しが面倒だからだ。画面の私は相変わらず酒を飲みながら料理をしている。一服して、喉をうるおして、録音を再開する。)

「そんなに黙ってないでよ」
 俊輔はいつもより水分量を溜めた眼で私をじっと見つめていた。突然別れ話を切り出してショックを与えてしまった、と思っているだろう。けれど私はただぼんやり、この関係性の発端を思い返していただけだった。
 あのさ、と言った声のこわばりから、分かっていた。理由は別に好きなひとができたからだと簡単に白状した。そっか、とすぐに飲み込むのはさすがに不自然だったから、何か別のことを考えようとしたのだった。
 俊輔に反対する気はもとよりなく、とはいえ何か場に合った言葉がないか探そうとした。一度くらい嫌がって駆け引きを試みる、そんな気力はもう残っていなかった。
「そのひとの、どんなところが好きなの?」
「え?」
 我ながらファインプレーだと思ったのだが想定外だったらしく、私を捉えていた眼は落下した。ローテーブルを挟んだ俊輔の周りには、私が洗濯機を回して干してたたんだ服や、私があげたアクセサリー、そしてあの頃から変わらず薄汚れたままの財布などが、フローリングのそこかしこで散乱していた。彼はほんとうに私と別れて生きていけるのだろうか。
「うーん、なんだろう、た、タバコを吸わないところ?」
 俊輔は相変わらず隠し事が下手だ。嘘はもっと下手だから、本音の一部なのかもしれない。でも、こんな関係性でいながら――私にあれほど甘えておきながら――禁煙してほしいと言われたことも、仄めかされたこともなかった。つまり、もっと言いづらい理由があるのだろう。そうやってこんな場面になってまで傷つけたくないなんて思うのは、ただのクズだ。

(ここまで来て舌が疲れたのか呂律が危うくなる。丁寧に、着実に読んでいく)

「どんな子なの?」
「どんな子……よく、笑うんだよね。明るくて、一緒にいて楽しくて、ちょっとわがままだけどそれも楽しくて――」
 これから元になるとはいえ彼女の前で、そんなノロケをよく言えたものだなと呆れてしまう。俊輔はそういう男だった。バカでだらしがなくて頼りない。でもまっすぐだった。良くも悪くも。
 ちょっとわがまま、と俊輔は言った。その通りだった。私は恋愛をするには良妻賢母すぎたのだ。私は彼と恋愛していたのではなく、そうやって「いい彼女」であることで贖罪を果たしていたのだから。それは完璧に遂行してきた。あまりにもこの関係は順調すぎて、あまりにも都合が良すぎたのだ。
 私はようやく解放される。出かける予定を毎回考案することから、彼の悪気はないドタキャンに備えることから、鼻が悪くなってしまうほどの口臭から、苦痛でしかなかったあの下手すぎる――それでいながら私に絶頂を強いる――セックスから。
 当然のことながら、別れるべきだとはずっと言われ続けてきた。
「それならレンタル彼女の方がいいじゃん、金もらえるしさ」
 私のあまりの都合の良さを聞いて、同じ職場の綾華が踏み込んで放った言葉。元の会社は違うが同じく事務の派遣社員で、ほとんど同期みたいなものだった。彼女は仕事を結婚までの暇つぶしとしか考えておらず、私は仕事にやり甲斐を求めていなかったから、お互い正社員になろうとは考えてもいなかった。どちらかというともはや戦友に近しい。
 レンタル彼女。しかし私がしているのは贖罪で、それで何かを得るわけにはいかなかった。彼女には罪について話していなかったから、そうしようかな、とだけ返事をした気がする。
 綾華には数年前から有望な――言うまでもなく結婚においての――彼氏がいた。けれど聞くところによるとなかなかの奥手で、優柔不断の塊のようだった。内定はしているがまだ時間がかかると見越した彼女は、マッチングアプリを使って捕まえた男子大学生たちとよく遊んでいた。若くてかわいい男に金を使うのが気持ちいいと言っていた。それは傍から見ていてもバレる気配がなく、女は、非情なまでに徹底できるから、嘘が上手いのだと知った。
 ところが先日、プロポーズをそれとなく仄めかされたらしい。例の遊びは止め時を見失うほど熱していて、葛藤の日々を送っているのだそうだ。

(話し終えてからなんだが、このエピソードは要らなかったかもしれない。気にくわなかったらカットする)

 ふと、目の前で自分の家にいながら所在なげにしている俊輔の、だらしなく伸びた前髪にピントが合った。こんな男のどこをいいと感じたのだろう。あるいは、またしても独り相撲か。

 (当時の声の調子を思い出して、それに重ねる)

「後悔するよ」
 別れ際らしい台詞を吐いてみる。後悔されても困るけど。これが最も後味がいいだろうから。
「由紀、も、しあわせになってほしい」
 俊輔の眼からは溜めきれなくなった水分がぽろぽろと粒になった。それはどうしようもなく無意味すぎて、そのただの水滴がが涙だと私は、ずっと気づけずにいた。

(これで、前編は終わり。正直ここまで遡る必要もなかったのかもしれないが、フィクションらしさと実話らしさが融合して面白くなるような気がした。後編の撮影は、また明日。)

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。