破壊衝動 [倫理的注意]
いつも暗い、翳った部屋にいた。ほんとうはそこは午前でレースカーテンから陽が射し込んでいたり、夕暮れをすぎて電気がついていたりしたのかもしれない。ほんとうを思い出せないほどわたしはまっくらだった。
わたしは母親になろうとしていた。いや、目に見えないだけで存在はしているのだから、もう母親なのだった。子を産んで幸せになりたいという希望は抱いていなかった。だから、なのだろうか。わたしにはその準備ができていなかったから。
妊娠していることがわかってから、ただしくないことをしている、という意識がずっとあった。ただしいこと、というのが何なのかもわからない。それへの罪悪感もあったのだろうけど、それ以上に自分の望んでいない未来へ、抗うこともできず前進させられている、この絶対的絶望に打ちのめされていた。そしてそれがさらによくないことだった。
日ごとひどくなっていく吐き気、めまい、頭痛……あの頃わたしはますます逃げられなくなった。精神も身体もくたびれるのを越えてわたしの感覚は縮小せざるを得なかった。すべてを投げ出したい、そう考える余裕さえなかった。
そのひとつの要因として、わたしは子を産んで幸せになれるとは思えない、というのがあったと思う。わたしは母親になっていい人間なのか、それほど立派なのか、そんな人間がまともな人間に育てられるのか、それは将来的な悪事をはたらくこととおなじなのではないか。
何か――ぶあつい布のような、膜のような、ツタのような――が身体を覆っていく感覚。それが眠っている夢のなかでのことなのか、目が覚めていて憂鬱のなかなのかも混濁していた、まっくら。それらはつわりが落ちついていくにつれて、気がつけば霧消していた。
「いわゆる妊娠うつ、だったのだとおもう」
安定期に入ってようやく会えた真理さんに、会えていなかったときのわたしの状態をまとまりのないまま説明した。テーブルの下ではアンクルパンツからのぞく細くきれいな足首をむきだしにしながら、高すぎず低すぎないヒールを履いた脚を組まれているのだろう。毛先まで気の行き届いたショートの真理さんはアイスコーヒーをストローで吸い上げる。
わたしが話しているあいだ、真理さんは相槌どころか先をうながす目配せさえしないで、ただじっとわたしを眺めていた。そして話しきったいまも、そのままだった。テラス席で心地いい風に吹かれながらも、雑多な足音や会話の切れ端がいやでも耳に入り込んでくる。
真理さんが考えていることが分からなくて不安、なのはよくあることだった。ほとんど常と言っていいくらいなのに、わたしはいまだに慣れることができないでいる。なにもかもを見透かしているようで、わたしなんて真理さんの世界には映ってすらいないようで。
真理さんは、どうしてたの?
何でもいいから声がききたくてそう言おうと息を吸ったとき、
「嘘でしょう?」
と一切の予兆をみせずに真理さんは言い、またストローに口をつけた。わたしはココアを飲もうとカップに指をかけることもできないくらい、虚をつかれた。
「私のことがまだ好きなくせに、子どもなんかつくるから」
その音は空気を介していないかのようにわたしのからだに直接的に振動した。気がつけばわたしは真理さんの目を見ていなかった。
「夢のなかでまだ私の名前を呼んでいるくせに」
どれだけ会いたかったことか、知らないのだろうと思っていた。でもやっぱり、真理さんは、わたしを見透かしていたのだ。それがたまらなくうれしくて、あたかもそれまでの世界が色を失っていたかのように錯覚する。店員を呼ぶ声すら意識のはじでちらちらする程度だった。
真理さんの世界にわたしはまだちゃんと存在していて、見てくれていたんだ。それだけでなにもかも放り出せるくらいしあわせなのに、わたしはよくばりになってしまう。
「だいじょうぶ。私が救ってあげる」
とろけてしまうくらい甘い声を発してから、真理さんは重たい鉄の椅子をほんのすこし引いた。肘おきに両手をついて、前かがみになった。左脚に重ねていた右脚を浮かせた。そしてわたしに向かってにっこりと愛らしく微笑んで、黒いパンプスをわたしのぼってりとしたお腹に押しつけた。
くるしくて涙が出た。それを見た真理さんはつくりものだったそれからほんものの笑顔になって、何度も、入念に、何度も蹴りつけた。昂ぶっている真理さんの膝がテーブルの裏に当たった。ほとんど飲んでいなかったココアが波打ち、ソーサーにこぼれた。食器のぶつかる音がした。くるしくて、いたくて、しあわせで、きもちよくて、涙はとまらなかった。ああ、あのまっくらから逃げずに耐えてよかった。
今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。