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1.雨が降りませんように

 むかしから傘を持ち歩くのが嫌いで、午後から雨が降るとされる天気予報の日は、登校しながら学校に向かって「雨が降りませんように」と祈っていた。その祈りが届くこともあれば、当然、予報のとおりになることもあった。今日もいつものように職場に向かって祈りを捧げたが、ゆっくり、着実に雲の一群は僕のいる地域を覆いつつあった。
 このクリーニング店に客はあまり来ない。住宅街の入口という立地は周辺の住民をターゲットにしているのだろうが、そもそもクリーニング店を利用しないか、安心・安全のチェーン店に吸われているかのどちらかだった。
 カウンターからガラスを通して視線をあてどなくぼんやりさせていると、店の受付業務よりも町の見張りをしているようだった。こんなこと、誰に頼まれたわけでもない。そうやってうまく自分がいることの意義を考えていると、余計に退屈さが感じられた。
 あまりにも人が来ないので、コロナ禍でクリーニング業界がどれほどの打撃を被ったのかも分からない。そうでなくとも平生の収益からしていつ潰れるのか……。それはそう遠いことではないだろう。そこに不安はあまりなかった。ここの受付業務に大したこだわりもないし、職を失えばそれはそれでまた別のところで働けるだろうからだ。どこかの正社員になりたいとか、定職に就きたいと思うこともなくなっていた。
 書類を保管するキャビネットの上には、退屈さのあまりしんどくなってしまったときのためにコンビニで買った漫画雑誌が置いてある。とはいえ表紙の騒々しさから、それを開くモチベーションになったことはなかった。こうやって動かない風景を眺めるともなしに眺めているのは、案外性に合っているのかもしれない。
 口渇を覚えて、のこり二口ぶんくらいのまま放置してあった冷めきったコーヒーを淹れ直そうと、回転椅子から立ち上がり、マグカップの取っ手を握る。その動作のひとつひとつが重たい。振り返って給湯器のある奥に進む。電気をつけ忘れていたことに気がついたが、すこしうす暗いくらいがちょうどいいから、まだあとでいいかと思い直した。
 カラカラ、という音が背後から聞こえた。その音には耳馴染みがあるように思い、振り返ると、三十代半ばらしい女性が入口の戸をすこし開けてこちらを窺っている。何だろうと思いかけたが、その女性の手には大きな紙袋があるのを発見して、客だと認識した。
「まだ、やってますか?」
 客は中に踏み込まないまま、僕と目を合わせている。表情と態度の両方から不安そうなのが見て取れた。
「ええ。いらっしゃいませ」
 外していたマスクを左ポケットから取りだして耳にかけながら、さっきまで腰かけていた回転椅子に戻って坐り直し、またマスクを下げて残っていたコーヒーをすべて口に入れて、マスクを直す。ひどく不味かった。
 僕が受付態勢をとると、客は自分が通れるくらいにさらに開き、すっぽり入りきると後ろを向いて丁寧に戸を閉めた。夕日は沈み始めて暗くなってきていたので、もう一度客がこちらを向く前に中腰になって電気をつけた。
「どうぞ、かけてください」
「ありがとうございます」
 客はあくまで礼儀正しく――あるいはよそよそしく――プラスチック製の椅子に座り、その大きな紙袋を横に置いた。それを観察していると、高校のときに付き合っていた元カノとそっくりなことに思い当たった。マスクで顔の半分が隠れているからかもしれないが、そのときの彼女にちょうど二十歳を足したようだった。その彼女とは高校を卒業して以来会っていない。
「衣類を拝見してよろしいですか」
 あっと客は小さく発して、置いたばかりの紙袋を膝に置き直し、一枚ずつ取りだしては僕と客を隔てるカウンターに乗せた。すべて冬用のものだった。
 紙袋を客が折りたたみ始めたのを見て、確認しますと言ってから点検を始める。種類の確認とともに、現在どんな状態なのかを入念にチェックする。
「子ども用セーターが一枚。大人用セーターが……二枚。コートが……こちら内側を確認しても?」
「はい、お構いなく」客も僕の点検をじっと見守っている。そのときの髪のかたちがまたそっくりだった。
 内側を開き、外傷がないかを見る。ポケットのなかはちゃんと空だった。二つ目の男性用の方は一枚目よりもかなりくたびれていて、これがクリーニングに来た一番の理由だろうと見当をつけた。
「はい、大丈夫です。コート二枚ですね」
 客は口を挟むことなく、従順だった。でもその従順さが横柄を許しているわけではないことは、もうちゃんと知っている。このしおらしさからして、クリーニング店の利用は初めてなのだろうか?
 複写式のチェックシートを一セット取り、記入していく。料金を確認しようと右の壁の客側に貼られた一覧表に目を向けると、客も同じ方を向くのが分かった。
「セーターは五百円、コートは千五百円なので……四千五百円ですね」
 はい、とだけ客は言った。外の風景は雲で空が遮られている。いまにも降り出しそうな気配だった。
 料金をしっかり下の紙にも漏れなく写るように強く記入し、客と目を合わせる。
「いつ受け取りを希望されますか? 最短で明後日になりますが」
 客は合わせていた目を逸らし、すこし考えてから、五日後を指定した。その日付をまた強く書き入れながら、「クリーニング店の利用は初めてですか」と、なんとなく訊いてみる。
「いえ……つい先週に、夫の異動でここに越してきまして、ゴミ出しに行くときにここを見つけたんです」
「ああ、そうなんですね。お忙しいのに……ここのところ夜は急に冷えてきましたからね」
「ええ、もう大慌てですよ」客はすこし緊張が解けたようで、相好を崩した。もうすこし早く話しかけてもよかった気もしたが、それはそれで気が進まないように思えた。
「では、記入に間違いがないかの確認と、名前と電話番号をここにお願いします。」
 紙を客に向け、ボールペンを差し出した。客は僕が書いているのを注視していたから、軽く眺めてすぐに書き始めた。
「ここのお仕事は長いんですか?」目は用紙に向けたまま、客は訊いた。大学受験を控えて向かい合って勉強をしていた記憶と重なる。
 彼女は意志を持って教育学部を志望していて、僕は何となく経済学部を選んでいた。希望の大学は一つも重なっていなかったことから、もうどこかうす暗い空気はあったが、勉強に支障を来さないようにと、受験に関わることしか話さなくなっていた。放課から真っ暗になるまで一緒に勉強をし、冷たい廊下を手をつないで歩いた。すれ違う同じサッカー部のやつらからはいつも冷やかしを受けていた。でも、誰もが優しく接してくれていた。大して面白くもないボケに欠かさず笑ってくれたし、何かと僕の周りに集まってくれた。黄金時代。
「そうですね。四年くらいです」そのあとに何か続けようと思ったが、とくに何も思いつけなかった。左から前の道を歩く人が現れ、正面の家へと吸いこまれていった。
「書けました」
 客の身体から離れた用紙を指で引き寄せ、確認する。丁寧な字だった。用紙を分離させて、下を渡す。
「ではお預かりします。用意ができたらお電話します」
 お願いしますと簡易のお辞儀をしてから客は立ち上がり、椅子を直して、目を合わせ、ガラス戸を開いて出て、閉めるときにまた目を合わせて帰っていった。
 風景はまた固定的になる。衣類たちにタグのついたハンガーを入れて、工場に送る方のラックに吊す。個人情報が書かれた用紙はキャビネットに収められたファイルに綴じ、ふたたびキャビネットを閉めた。仕事は完了だ。今日もこの漫画雑誌に手をつけることはなかった。
 ふと、風景ではなく手前のガラスに焦点が合う。上方で、クモが巣をつくっていた。普段なら気にせずそのままにしておくのだが、位置的に目につくだろうし、なんとなく壊しておきたい気が起きて、立ち上がる。
 出勤時に店を掃くのに使うほうきを手に取り、カウンターを回ってさっきまで客のいた空間に侵入し、外に出る。近くで見ると、よく家に出るようなクモよりひと回りほど大きかった。口(尻?)の部分だけが動いていて気味が悪かった。
 巣の外側を掠めるも、一部がちぎれるのみで、巣は揺れながらも崩れる気配はなかった。今度は中心――クモを目がけて強くはたく。巣はその一撃でボロボロになり、クモは地面に落下した。微かにだけ動いていて、逃げる余力もないようだ。すこしためらう。その先に後悔があることを知っていたから。でもしばらくして元気を取りもどせばまた巣をつくるだろう。後悔しながら、ほうきをさらに強く振り下ろした。
 クモはつぶれてしまっただろう。これから降る雨に打たれ、どこかに流されていってしまうだろう。でも、いま手を加えなかったとしても、いずれそうなっているのだ。死は遠くのいつか起こることではなく、生の前提なのだから。
 クモの存在は過去になった。過去がいちばん美しくて、生き生きとしている。だから誰もが過去を頼りに、過去にすがって生きている。そうでない人間がどこにいる?
 すこし早いが、もう閉めることに決め、軽くほうきを払ってから開けたままのガラス戸のなかに入った。雨はもうじきに降る。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。