リバティバランスを射った男、なんて映画をアメリカ人は今も見るのだろうか

私は時々思い出して観る映画が何作かある。
理由は単にみたくなるからで、理由を言い出せばそれは全て後付けだ。意味があるように思えることなど一つもないのだが、感想なんて残したくなるのは人の意見をちょっとだけもらいたくなるためで、やはりずっと一人で見るのは寂しいと思うからだろう。

といわけで、今日思いついたのは「リバティバランスを射った男」である。
白黒で、監督はジョン•フォード、ダブル主演となった、ジョン•ウェインとジェームズ•スチュワート、今や誰も驚きはしない。
当時であればこの組み合わせだけで話題作であったろう。なにしろ西部劇全盛のころである。ジョン•フォードとジョン•ウエインといえばその西部劇映画宇宙の中心、大星雲である。そこにジェイムズ•スチュワート、日本で言えば裕次郎と旭みたいなものかもしれない。残念ながら当時の社会の空気をまるで知らないから、想像で酔っている。なのでほとんど意味がないだろうよ、と思うのである。
話は逸れるが全ての映画批評に関して、リアルタイムで体験した人の批評以外はほとんど意味がないと私は思っている。リアルタイムの体験とは映画と映画が作られた当時の社会そのもののを指している。例えば興行成績あるいはキネマ旬報で年間上位の作品が年代を経ると訳のわからん作品となって、大した支持を得ることができない。年代の差を国境とか民族に置き換えても当てはまる。
というわけで、この「リバティバランスを射った男」は1962年の作品、昭和で言うと37年、もう60年も前のこと。ケネディ大統領の時代、暗殺される前、東西冷戦が雪解けの方向に向かったり、キューバ危機だったり、アポロ計画が推進されたり、公民権運動も盛んとなった時代である。アメリカの最も力があった時代かもしれない。何事にもつけ変化スピードと人々の熱狂があったのではないかと思われる。本当はしらんけど。
徐々に日本でも認識の度合いが増してきた感じもあるが、アメリカは分断社会である。もともとリベラルですからね、リベラルと自由、個人がある程度の結びつくことはあっても、それはグループ単位であって、統一国家のデザインされた中で結合し国家として安定しようという気持ちは薄い国です。幾つものグループが何かまとまれる旗頭のもとで国の方針を決めているのが、その象徴が今はリベラルとフリーダム、ヒューマンライツ。それを叫ぶしかなくなると団結する。昔のリメンバーパールハーバー、最近ではテロとの戦い、自由のために戦う、というフレーズ。

まあ、そうなるのも仕方ない、なにしろ広い、広いのに住めるところは狭い。人は増えるが住宅が足りないのである、今でも。アメリカ経済での重要な指標は住宅着工数である。宅地開発、ニュータウンの建設、アメリカに限らず、日本以外でも中国も韓国も大変らしいが、アメリカの特徴は前述のグループが個人になるといろいろ組み合わさって地域社会を作っているといことだろう。
人種、宗教、所得などいろいろ。オバマは黒人なのか?って言う話でも想像できるが、一見同じでも出自や学歴でグループのセグメントは複雑になる。黒人社会と言っても家系はそれぞれ、アフリカから奴隷船で運ばれた祖先の人もいれば、ジャマイカあたりからとかいろいろ経由して最近来た人、親の片方は白人だったりとか、キリがない。ヒスパニック、イタリア系、ドイツ系、東ヨーロッパ、インド系など無数のそれぞれのグループがあって、それぞれを認めあっても生活をしている。問題は明確で、それが相対主義だからである。
「ああ、そうなのね、そっちはそっちで、こっちはこっち」という具合かもしれない、そうでなければ暴力的な対立。
だからいつも旗頭を思い出させないといけない、自由のための戦争、税金を使いまくれる戦争
リベラルと言われる民主党政権で戦争が多いのはそういう理由で。
アフガンもイラクもブッシュ政権共和党だったよね、って言うとこれはこれでもう一つ戦争が必要な理由がありまして、これは石油とイスラエル、ビジネスマンが軍産複合体として政権を動かすとこうなる。なにしろパウエル国務長官の時代のことで、これは別の機会に。

というわけで本題。ネタバレにならない程度に。
ポイントは西部劇劇ですが、保安官と悪党の戦い、インディアと騎兵隊の戦い、ならず者と流れ者の戦い、敵討ちといういずれでもない、西部開拓時代を舞台にした男と女の三角関係なのであります。
ジョン•ウエインがガンマンで、悪党に襲われたジェームズ•スチュワート演じる弁護士を助けたところから話は始まる。
その州では連邦政府に入ろうか入るのやめておこうかの二手に分かれて投票が行われようとしていた。
私が面白く見るのは、1880年ごろにアメリカはこんな地域があったということである。この20年後に米西戦争なので、国内が統一されて、対外戦争をするのは彼方もこちらも同じ事か。
連邦政府に加わるのなら誰をワシントンに送るのかとかの話にも移ってゆくと、酒場というかレストランで住民同士が話し合って賛成多数でまとまる、という場面があり、なるほどと思うのであります。そうか、リベラルとデモクラシーしか初めからなかったのだからこうなるよな、って。
決して長い歴史を持たないアメリカで、このリベラルとデモクラシーは伝統的慣習的に疑いのない自治の柱なのだ、だからこれでまとまることができるのか、と妙に合点が入ったのである。
トクヴィルがアメリカについて書いた本の中には、このリベラルとデモクラシーがそのうち肥大化してまとまりがなくなり、自壊する予言を示唆していたが、今日の状況を言い当てていないとは言えないだろう。
リバティバランスがいた十九世紀後期、その映画が作られた1960年代、そしてトランプ後の今の時代、たかだか140年であるのだが、その間に起きたアメリカの覇権と没落を、この映画を見ながら考えるのはつまらなくはないのだ。

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