沈黙の赤ワイン(小説)
「結婚してほしい」
僕がこの言葉を放つのは、これで三回目だった。一度目は横浜の海が一望できるフレンチレストラン、二度目は東京タワーが見えるイタリアンレストラン、そして三度目の今回は、浅草にある老舗の洋食レストランだった。二度目までが非現実的な場所だったから、今回はあえて手ごろな場所にした。
しかし、彼女は場所など関係なく、「ごめんね」と言って赤ワインを飲んだ。
「どうしてダメなの?」
僕はどうしても諦めきれなかった。彼女と付き合って三年が経つが、これまで彼女とは上手くやってきたと思っている。今の恋人関係から一つ上へステップアップしたいと願うのは当然だろう。
だけど、彼女は僕と結婚してくれない。その理由を知りたかった。
「何かいけないことがあるなら改善するからさ。教えてくれよ」
しかし彼女はスンとした顔で、まるで何事もなかったかのように赤ワインが入ったグラスに口付けするのだった。
「沈黙か」
一度目も、二度目も、そして三度目も、彼女は僕を振った理由を教えてくれなかった。例えばここで僕が怒り狂って、「ふざけんじゃねえよ!」と怒鳴っても、きっと彼女は無感情なままワイングラスを揺らすのだろう。あるいは僕がみっともないくらい泣き喚いても、彼女は知らんふりしてワインの香りを楽しむのだろう。
もう、諦めて別れた方がいいのだろうか。
「このハンバーグ、ワインとよく合うよね」
やっと喋ったかと思ったら、彼女はご飯の感想を言った。僕は怒りを通り越して呆れるしかなかった。だけど彼女があまりにも満足げな顔をするから、僕は小さなため息をついて「そうだね」と言うことしかできなかった。
彼女がいきつけにしている荻窪のレストランは、彼女が気に入っている赤ワインが飲める場所だった。僕は鞄に結婚指輪を忍ばせておいた。もしこの店で彼女の機嫌が良くなるなら、そのタイミングに乗っかってプロポーズしてしまおうと思ったのだ。
「ここ、友達が教えてくれたんだよね」
「へえ、おしゃれな場所だね」
「うん。そして私が好きなワインが置いてあるの」
彼女は明らかにご機嫌だった。僕は様子を伺いながら、彼女のワインに付き合った。
彼女は出会った当初から赤ワインが好物だった。出会った当時、僕はワインをほとんど飲んだことがなかったが、彼女といるうちに飲み慣れてしまった。
「そういえば、初めて出会ったときも一緒にワインを飲んだよね」
彼女は注がれた赤ワインを一口飲んでから、そんな話を始めた。
「そうだったね。たしか君が僕に飲んでみたらって勧めてきたんだ」
「そうだったね。あれはもう、何年前?」
「四年くらい前だよ」
「四年も前かあ。懐かしいね。たしか橘さんが開いてくれたパーティーだよね」
「ああ、そうだったね」
僕と彼女は四年前、橘さんという共通の知り合いが開催したパーティーに参加したときに出会った。あのときも彼女はワイングラスを片手に友人たちと楽しく談笑していた。僕はそんな彼女に一目惚れして声をかけたのだった。
「橘さん、今も元気にしているかなあ」
彼女が懐かしそうに言う。
「どうだろう。僕も最近会っていないから」
「あのときのあなた、めっちゃ積極的だったよね」
彼女はおかしそうに笑う。僕も鮮明に覚えている。駆り立てられた欲望が抑えきれなかったのだ。
「なんというか、君に一目惚れだったんだよ。だから、これは逃すまいと思ってね」
「あのときのあなた、狙った獲物は逃さないって目をしていたよ」
「それは怖い思いをさせたね」
「でも、そこまでの情熱を向けてくれる人は今までいなかったから。それに、あなたといると穏やかな気持ちになれる」
「それは、どうも」
好きな赤ワインを飲んでほどよく酔っているのだろうか。僕は鞄の中で眠っている婚約指輪を出そうか迷った。
ただ、今日の彼女には婚約指輪が似合わない気がした。今日の彼女はラフで、緩くて、楽しそうだった。もしかしたら勢いでオッケーを出してくれるかもしれないが、僕は真剣に向き合った状態で彼女にプロポーズしたかった。
店を出て、二人は僕の家へ向かった。何処かへ出かけても、最終地点は僕の家になることが多い。前に僕が彼女の家へ行きたいと言うと、彼女は実家暮らしで家に親がいるから勘弁してほしいと言われたことがあった。対して僕は一人暮らしだから気にせず過ごすことができる。
この日もシャワーを浴びたあと、ベッドの上で抱き合って、そのまま昼寝をした。夕方になって二人で買い物へ出かけ、家でオムライスとサラダを作って食べた。そのときも、彼女は赤ワインを飲んでいた。
「いつも飲んでいるよね、赤ワイン」
「うん。美味しいからね」
「そんなに飲んでいて飽きないの?」
彼女は断言する。
「飽きないよ。好きなものは毎日触れていたいから」
その通りだった。好きなものには毎日触れていたい。だから僕は彼女と結婚したい。結婚して、毎日触れていたいのに。
「あのさ」
「どうしたの?」
「やっぱり、ダメかな?」
「ダメって何が?」
とぼけている様子はなかった。彼女は本当にわからない顔をしている。困惑まじりの、不思議な顔を。
「結婚」
だからこそ、僕がはっきりと言うしかなかった。僕の意志は固くて太いのだと証明するしかない。それしか僕にはできなかった。
だけど、彼女はいつだって曖昧だった。故に沈黙した。無視をしているわけではない。沈黙なのだ。そして静かに赤ワインを飲む。それが彼女の意志だった。
「僕はこれから先どうしていけばいいのか、正直わからなくなっているよ。でも、君はそうじゃなさそうだ」
彼女には焦りがなかった。むしろ醸し出しているオーラは余裕の色をしている。それが僕にとっては不思議でならなかった。
「ねえ、あなた」
「何?」
「今度、うちに来る?」
突然の提案だったから今度は僕が困惑する番になった。
「え、でも」
「大丈夫。この間引っ越したから」
「引っ越した? 実家から出たの?」
「うん」
それ以上、彼女は何も言わなかった。どうしてもっと早く教えてくれなかったのだろうか。そんな言葉が喉元まで出かかっていたが、彼女のワインを飲む姿があまりにも優美だったから、僕は何も言えなかった。
「じゃあ、行ってみようかな」
「来週は空いている?」
「うん。土日どっちも空いているけど」
「じゃあ、土曜日でいい? 時間はいつでも」
「なら、昼ぐらいに行こうかな。場所は?」
彼女はとくに躊躇うこともなく、「下北沢の方」と言った。
下北沢を歩く彼女の足取りは、快速列車に乗るようなスムーズさがあった。彼女は僕を家へ連れて行く前にいくつかおすすめだというアパレルショップを教えてくれた。
「このジーパンとか、あなたに似合うと思うけど」
「たしかにカッコいいね」
「あー、でもあっちの店舗にもあなたに似合いそうなジーパンがあったんだ」
見る? と聞く彼女の目はキラキラと輝いていて、屈託がなかった。僕はそんな彼女が好きだから、ここまで来た。
「詳しいんだね」
「え?」
「いや、この間引っ越してきたわりには下北沢に詳しいんだなって思って」
それに対して、彼女は沈黙した。僕はそれ以上追求しなかった。
買い物を終えて、僕らは彼女の家に着いた。比較的新しいアパートの二階に彼女の部屋はあった。彼女がオートロック式の鍵を開けて僕も一緒に家へ入ると、玄関には何足か靴が並べられていた。その中には、明らかに彼女のサイズではないサンダルが置かれていた。
「喉渇いたね、何飲む?」
「ああ、そうだね、さっぱりしたお茶がいいかな」
「烏龍茶でもいい?」
「いいよ」
僕は食卓用テーブルの椅子に腰を下ろし、彼女の部屋を見渡した。彼女曰く家は一DKだという。部屋の隅には二人ほど眠れるベッドがあり、カーテンレールから男物の下着がぶら下がっている。それからテレビを見るためのソファがあり、その上には人気キャラクターのぬいぐるみが寝転がっている。テレビの前には彼女と知らない男の二ショット写真が額に入って、二人の幸せな生活に花を添えている。
「どうぞ」
彼女はグラスに烏龍茶を注いで僕の前に置いてくれる。
「ありがとう」
烏龍茶を飲めば全てが嘘になるかもしれない。そう信じて飲んでみたが、見える景色は変わらなかった。
「ワイン飲んでいい?」
「ああ、いいよ」
「あなたも飲む?」
僕は迷わず「そうだね、いただくよ」と答えた。
彼女が注いでくれる赤ワインは、上品で純粋な味がした。彼女は樹海のように物静かさを保っていた。たとえ僕が訪れてもそれが崩れることはなく、彼女は彼女の日常を楽しみ続けているようだった。ワイングラスを片手に、時折甘い果実の香りを愉しみながら、彼女は何も間違っていないことを証明し続けている。
「美味しいね、これ」
エアコンの風で男物のパンツが揺れる。
「でしょう。お気に入りなんだ」
満足そうな彼女は、何も隠さない。
「そっか」
僕は二杯ほどワインを飲んだ後トイレへ行き、わざと爆音で着信音を流した。それからトイレを出て玄関先へ行き、申し訳なさそうな声を出した。彼女がいる部屋へ戻り、「ごめん、ちょっと仕事が入っちゃって」と言うと、彼女は心配そうに「大丈夫?」と尋ねてきた。その顔に、嘘は微塵もなかった。
「大丈夫。でも、行かなきゃ」
「わかった。じゃあまた今度ね」
「うん」
僕は彼女に見送られながら、家を出た。
「また今度ね、か」
僕は自分が履いているチノパンの上から婚約指輪があることを確かめ、携帯で近くにある川を調べた。
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