パンケーキに塩を振る(小説)
「山ちゃんは甘党だね」
大学の食堂でショコラパンを食べていた俺に、同じ文学部の宮田エミがニヤケながら言った。
「まあ、甘いのは必須だな。なんというか、アイデンティティなんだろうな 」
「甘いものが?」
「そう。男にしては珍しいだろうけど」
俺の陣地にはショコラパンだけではなく、加糖の缶コーヒーも置かれている。『甘い』を掛け算しているようで、客観的には病気にならないか心配されるレベルだが、山ちゃんは甘党だから仕方がない。
「でも、私のラーメン好きも珍しいよ」
「たしかに、女性でラーメン好きってあまり聞かないな」
「それも、コッテリ系だから。そういえば、山ちゃんはラーメンとか好きじゃないの?」
俺は残りのショコラパンを食べ切ってから、「好きじゃないね」と言い切った。
「ラーメンは脂っこいし、しょっぱいからな。だったら、パンケーキを食べる」
「もちろん、生クリームたっぷりでしょ」
「それから、生フルーツも忘れちゃいけないさ。ああ、パンケーキ食べたくなってきたな。そうだ、エミは今日バイトだっけ?」
「いや、今日は三限まで受けたら、あとはフリーだけど。強いて言えば、レポートをやろうかなって思ったくらい。え、もしかしてパンケーキ食べようとしているの?」
俺は糖分だらけの唾液を飲み込んで、うなずく。
「インスタグラムで調べていたら、池袋に美味そうなパンケーキがあるカフェを見つけたんだ。三限終わったら合流しないか?」
「別にいいけど、絶対太るわあ」
「まあ、今度一緒に皇居の周りでも走ればいいさ。それで解決する」
「山ちゃんは走ることが好きだね」
山ちゃんは走ることが好き。それも間違いのないアイデンティティだった。
「そうだな。山ちゃんは走ることが好きだな」
それから俺たちは一度解散し、三限を受けたのち再集合して、電車を乗り継いで池袋駅まで向かった。
カフェは池袋駅からほど近い場所にあり、時間帯的にそこまで混み合っていなかった。俺たちはゆったりしたソファ席に座り、目的通りパンケーキを注文した。俺は追加でアイスカフェラテを頼み、ガムシロップを二つ入れた。
「へえ、落ち着いた雰囲気でいいじゃない」
「ネットで見た通りだ。駅からも近いし、たまに来るにはいいかもしれないな」
それからパンケーキが運ばれてきて、俺もエミも昼食を取ったことなど忘れたように、あっという間にペロリと平らげてしまった。
「うん、美味しい。ちょっとホイップクリームが甘い気もするけど、これは最高の糖分補給って感じ」
エミは太るかもしれないと躊躇していたが、食べてしまえば満足の一言だった。
「俺も気に入った。また来ような」
「そうね」
目的を果たした俺たちは、池袋駅で別れて各々の目的地まで向かった。俺は空になったペットボトルを左手で持ちながら、ギラついた広告たちをぼんやりと眺めていた。
最寄駅に着いたとき、電話がかかっていた。出ると通っている歯医者からで、次回予約を取り忘れているのでこの場で取ってほしい、とのことだった。俺が日時を伝えると、「かしこまりました。では、山田裕さまの次回のご予約は……」と確認をとって電話が切れた。俺は一度ため息をついて、茜色に染まりつつある空を見上げた。果てしなく広がる空は、俺よりも遥かに自由で美しかった。
「あら、お帰りなさい」
家に帰ると、エプロン姿の母親が俺を出迎えた。右手に菜箸を持っているから料理中のようだ。
「ただいま」
「冷蔵庫にシュークリームがあるから、食べてね」
「ありがとう」
俺は手を洗って、何度もうがいをした後、冷蔵庫からシュークリームをとって自室へ向かった。そしてシュークリームをゴミ箱へ捨てて、無駄紙で被せて見えないようにした。
こんなことをして、そろそろ五年を過ぎた頃だろうか。もはや具体的な年月は数えてもいないから覚えていない。しかし、二十を超えた俺にはすでに限界がきていた。この生活にはあまりにも無理がある。
「英治、英治」
ドアの向こうから母親が呼ぶ声がして、俺は仕方なく部屋から出る。きっと、いつもの儀式を忘れていたから怒っているのだろう。俺は仏壇の前へ行き、線香に火をつけて線香立てに刺した。それからりんを鳴らして手を合わせた。
「ごめん、帰ってからすぐにやらなくて」
俺が言うと、母親は「忘れちゃダメよ」と俺を叱った。それからいかにも寂しそうな顔をして、仏壇に飾られた写真を見つめた。
「もうすぐ七回忌になるのよ。裕」
「そんなに経つんだね、裕が死んでから」
「そうよ。交通事故で突然亡くなったから、正直今もあまり実感は湧かないんだけどね。まあ、裕は運動が嫌いで足も遅かったから、車が来ても避けることができなかったのでしょうね」
それから母は「英治みたく足が速くて、走ることが好きだったら良かったんだけど」と嘆いた。俺は何も言わなかった。
「だから英治、お兄ちゃんのあなたが、若くして死んじゃった裕の分まで精一杯生きなきゃダメよ。わかった?」
俺は母親ではなく、仏壇に置かれた自分の写真を見ていた。裕は七年前に死んだ。そして英治が生きている。俺は母親の要望通り、「わかった」とはっきり答えた。すると母親がにっこり笑って、「私は英治が立派な大人になって嬉しいわ」と言った。
数日後、エミが「山ちゃんが好きそうなパンケーキを見つけたから、一緒に食べよう」と言って、俺を原宿まで連れてきた。原宿はポップな若者が多く、どこもかしこもカラフルで、奇抜さに満ち溢れていて、目がチカチカした。カフェも俺が見つけた場所に比べてケバケバしさがあり、店員さんも品がなかった。そんな悪空間で、エミが俺に何気ない感じで言った。
「ねえ、山ちゃん」
「何?」
「そろそろ、下の名前で呼びたいんだけどさ。いい?」
俺はあいつが亡くなってからずっと、自分のことを「山ちゃん」と呼んでくれと周りに頼んでいた。だからほとんどすべての人は俺のことを「山ちゃん」と呼んでくれていた。エミもまた、今の今までは例外ではなかった。
「いや、それはちょっと」
「どうして?」
どうして、それは俺にもよくわからなかった。
「山ちゃんってさ、下の名前なんだっけ? いつも山ちゃんって呼ぶからさ。ってか、教えてくれたことないよね?」
教えたことはない。それを避け続けていたから。
「うん、なかったと思う」
「じゃあ、教えてよ」
せがんでくるエミを遠ざけるほど、俺は強い男ではなかった。
「俺は、英治」
「エイジか。じゃあ、エイジって呼んでいい? かっこいいじゃん、エイジ」
俺は山田英治。甘党で、足が速くて走るのが好き。だからパンケーキも食べるし、甘いコーヒーだって飲む。逆にラーメンみたいに塩っ気が強いものは嫌い。それが、山田英治。
「英治、か」
「うん。山ちゃんより男っぽいし、いいんじゃないの?」
「男っぽい名前か」
胸の奥で、何か嫌な物が動いた。これから先、エミが俺のことを「英治」と呼び出してしまったら。今までエミと過ごしてきた俺は、いったいどこへ消えてしまうのだろうか。
『私は英治が立派な大人になって嬉しいわ』
ここにいるのは、英治なのか? エミと一緒にパンケーキを食べたり、大学の話をしている男は、本当に英治なのか?
エミのことを好きだって思っている男は、英治なのか?
お前はそれでいいのか?
「なあ、エミ」
「どうしたの、怖い顔して」
エミは心配そうに俺を見ていた。怖がっているわけではなさそうで、強張っている俺の表情を見て心配してくれているのだろう。そんなエミを手放したくないと思っているのは、英治じゃない。裕だ。
「俺は、英治じゃないんだ」
「え?」
何を言っているの、というエミのリアクションは当然のものだった。
「どういうこと?」
俺は誰にも見せていなかった学生証をエミに見せた。
「え、裕。ヒロシって読むの?」
「そう。俺は山田裕。それが本名なんだ」
「え、じゃあ英治って誰?」
その疑問も当然だった。俺はスッと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。今更言ってもいいのだろうか。そんな葛藤はあった。だけど、これ以上我慢するのは耐えられなかった。
「英治は、俺の死んだ兄貴だ」
「死んだ兄貴。え、どうしてその人の名前を自分の名前として使ったの? 意味がわからないんだけど」
俺も意味がわからない。わかっていたら、こんなに苦労はしていないし、苦悩を重ねることもなかっただろう。だけど俺は、わからないなりに話すしかなかった。英治として生きるのは、もう限界だったから。
「七年前に俺の兄貴、英治が交通事故で死んだんだが、俺の母親が裕、つまり俺を死んだことにして、俺を英治として育て始めたんだ」
「え、何それ?」
唖然とするエミに対して、俺はすべてを吐き出したい意欲に駆られてしまった。
「俺も最初は抵抗したんだ。意味がわからないって。なんで俺のことを英治って呼ぶのか。俺は裕だって何度も言ったさ。だけど母親が俺のことを英治って呼び続けて、次第に父親も英治って呼ぶようになったんだ。仏壇に俺の写真を置いて、手を合わせる儀式も毎日させられて、英治が好きだった甘いものばかり食べさせられて。抵抗しようとすると、母親からも、父親から殴られた。そしてお前は英治なんだって何度も言い聞かせられているうちに、俺も英治で生きている方が楽だって思うようになったんだ」
「ひどい。あまりにも、ひどすぎる」
知らずうちにエミは涙を流していた。
「ああ、ひどい話だよ。本当に」
俺は内面に潜ませていた暗闇を全て吐き出した。ひどい。本当に、それに尽きる出来事だ。
「だからさ、本当は甘いものも嫌いなんだ。俺は、裕は、しょっぱいものが大好きなんだよ」
もう、止まることができなくなっていた。俺はカバンに忍ばせていた食塩を取り出して、それを思い切りパンケーキに振った。
「パンケーキに塩が降った。これでもう、俺は英治じゃない。エミ、俺を裕として認めてくれないか?」
俺が裕になるための儀式を、エミはしっかりと見届けてくれた。そして「あなたは裕よ」と、俺を裕だと認めてくれた。
「そう、あなたは、裕。それでいい。そうじゃなきゃダメ。私、これからは裕って呼び続けるから。だからあなたも裕として、自信を持って生きて」
「ありがとう、エミ」
俺は塩が降ったパンケーキを口に入れて、ジャリジャリと響かせながら噛み締めた。これだ、と涙を流したのは、間違いなく裕だった。
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