黄金の卵 (短編小説)



 北風が吹き荒れ、グラタンが恋しくなるほど身体が冷え切っている。妻から買ってもらった腕時計は午後二時を示していて、とっくにランチタイムを逃している。腹が減っては戦はできぬ。次の打ち合わせまでは二時間以上ある。どこかのファミレスで胃袋を満たそう。

 営業のため人生で初めて訪れたこの街に何があるのか、まるで情報を持ち合わせていなかった。オフィス街であることはたしかだが、ビジネスマンを囲うためか、飲食店も数多く立ち並んでいる。その中には見慣れない個人経営と思われる店も多く、見かけるたびに心が奪われそうになる。

 その中で一つの店が目に留まった。いかにも洋食を提供していそうな外装で、軒先に置いてあったブラックボードには、『本日のオススメはシーフードグラタンだぞ!』

 と下手くそな日本語が書かれている。僕の舌はすでに海に飲まれていて、熱々のクリームソースがきっと身体の芯まで温めてくれると信じている。

 よし、ここに入ろう。

 カランコロン、と大きな音が鳴り響き、レトロな内装をした店内へ入る。イタリア人かフランス人か僕には判別がつかないが、きっとヨーロッパ方面から来たのだろうと推測できるウェイトレスが僕を席へ案内する。

「ご注文決まったら、呼んでね」

 その外国人は冷や水とおしぼりを置いて何処かへ去る。ピークを過ぎているからか、店内は僕以外に一人の女性がいるだけだった。僕はチラリとその女性を覗く。スレンダーな風貌で髪を金色に染めている彼女は、妙に僕の心を刺激する。きっと彼女も外国人だが、たまには異文化を好きになるのも悪くない。

 彼女がスプーンを使ってゆっくりと掬い上げているのは、フワフワな卵を使ったオムライスだった。デミグラスソースと上手に絡めて、おしとやかな動作でそれを口に入れる。

 これも何かの記念だ。オムライスはグラタンほど身体を温めてくれないが、代わりに心にそっと情熱の火を灯してくれそうだった。注文しようと思ってチラッと横を見ると、『オススメは黄金の卵だぞ!』と描かれたポップが僕の目に映る。なるほど、このオムライスは『黄金の卵』と呼んでいるのだろう。僕は先ほどのウェイトレスを呼んで「黄金の卵をください」と注文をする。

「オッケー。黄金の卵ね。おいしいやつね。ちょっと待ってね」

 黄金の卵カモン! とウェイトレスが威勢よく叫ぶ。

 僕は料理ができる間、バレないようにチラチラと観察する。ほと走る想いが火を注いでボウボウと燃え上がり、熱くなっていく僕の心。彼女と一緒にフラメンコでも踊って、アミーゴと叫びたい。脳みそが溶ろけそうなキスでもして、全てを委ねて大空を羽ばたきたい。

 しかし、僕には最愛の相手がいる。それに、もうすぐ子供だって生まれるのだ。浮気なんてしている場合じゃないだろう。だけど、あの艶やかな身体を抱きしめてみたい気持ちが抑えられない。

 悩ましい気持ちでいっぱいになっていると、先ほどのウェイトレスが彼女に近づいて、なにやら談笑を始めた。僕には聞き取ることができないどこかの国の言葉で、弾むような会話を繰り広げている。彼女も幸せそうに笑みを浮かべて、おしぼりで口を拭う。

 すると、ウェイトレスがそっと彼女の唇を奪った。彼女はそれを受け入れるように、抵抗せず時間が過ぎていくのを楽しんでいる。長い長いキスを、昼下がりからやってのける。まるで僕に対して、これが本物の情熱だと見せつけるように、ずっと口付けを交わしている。

 僕は思わず目を背けて、彼らを見ないようにして冷や水を飲み干す。もう一杯グラスに水を注いで、別の意味で火照ってしまった身体を鎮火させる。タプタプになったお腹が苦しくなるが、心を癒すためには仕方がなかった。

 やがて二人は離れたようで、ウェイトレスはキッチンへと戻っていく。僕が再度確認すると、彼女は満足したように再び口を拭って、食べかけのオムライスに手を付ける。

 一刻も早く、この異国から立ち去りたい。さっさとオムライスを食べて勘定して店を出よう。

「はい、お待たせしました! 黄金の卵だよ!」

 ウェイトレスが僕の前に『黄金の卵』を差し出す。

「ごゆっくりね」

 ウェイトレスは陽気な声で言って去っていく。

 大地に咲く向日葵のような鮮黄色をしていて、フワフワでトロトロした食感を味わうことができそうな見た目。だと思ったが、僕の前にあるのは、楕円形ではなく長方形だった。洋風とはほど遠く、いかにも日本酒の肴になる雰囲気を醸し出している。隣には、積もる雪のような大根おろしが、主人公を引き立たせてくれる。

 でもこれは僕が求めていたものではない。様々な想いが募って、思わず叫ぶ。

「いやこれ、だし巻き卵じゃねえか!」


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