建築設計はもはや特殊技能ではない


映画、小説、音楽、舞台、絵、漫画、ダンス。
そういったものは、世の中に受け入れられるかどうかは別にして、誰でも創作できる、というかしても良い。
現代、誰でもそれを発信できるようになったことは良い事だと思う。
それによって、今までなら埋もれていた能力が発見されることもあるし、色んな感性の人々が創作した物が沢山でてくることは、世の中を豊かにするように思える。


建築について考える。
建築は、雨風を遮り、環境から人や物を守るハコである。

かつて、その機能を生み出す方法を知っているのは、少数の万能な天才だけだった。
風や地震で壊れない木や石の組み立て方、雨漏りしない屋根の納まり、雨風と時間により風化しにくい材料、太陽光や風を効果的に取り入れる平面断面、等。
それは、彼らがたゆまぬ努力や研究、経験により独自に手に入れたものであり、体系化されてはいなかった。彼らから誰かにその方法を教えることはあっても、断片的にしか伝えることは出来ず、彼らを中心としてしか建築は成り立たなかった。

その数人の天才を中心として建てられた建築の集合体は、各々の天才が知っている特定の合理的手法と、土地固有の条件、そして多少の趣味から構築された。また、彼らは建築単体だけではなく、建築が集合することで生まれる外部空間の重要さも知っていたため、こうしてできた集合体は、統一性と多様性をもつ、美しい街となった。


それからしばらく経ち、人や物を外部環境から守る技術は体系化され、決められた教育を受けることにより誰でもそれがつくれるようになった。
また、法律によって建築物の設計はその教育を受けた建築士の独占業務であると定められた。

日に日に増大する建築需要に対して天才たちは圧倒的に少数であったため、雨漏りを繰り返す酷い建築も多く建てられていた状況だったため、そのシステムは建物の一般的な意味での品質向上という恩恵を授けた。

法により多くの人に設計が許されるようになると、経済原理によりスクラップアンドビルトが繰り返される。そして、新築される建築は、かつての少数の天才ではなく、少し勉強ができて、少しアーティスティックな仕事がしたい人たちによって設計されるようになった。
彼らは、かつての天才が生み出した素晴らしい建築や街を学校で学んだが、それを自ら生み出すことのできるかどうかは話が別であった。

設計の許された、専門的だが多数の人が、かつての天才に憧れてエゴイスチックな建物を設計することで、現代の街はつくられている。


現代、空間を構成する能力と、建物として品質を確保するための知識は分離されていると思う。
もう少し経つと、空間的センスのある人が自由に設計できるシステムが完成され(戸建だとそのような事例もあるが)、それが広がって次は街に波及していくと思う。

センスの良い人が自由に、ラフに設計できる世の中になると楽しいという結論に向かって書いているつもりだったのですが、今まで書いたようなことになると、結局センスの悪い金持ちが建物を建てまくる世の中になってしまう可能性が高いことに今気づきました、、、


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?