『燕京文学』と引田春海

 鳥取県立図書館の膨大な鳥取県出身人物のデータベースに登載されておらず、これまで地域の文学研究者にもあまり知られていなかったであろう文学者として、引田春海を紹介したい。

 引田は、東伯郡中北条村に大正3年5月に生まれ、小学二年生の時に中国に渡り、ついで旅順に移動した。

昭和8年に旅順第一中学校を、同10年に同学会語学学校を卒業した後、外務省文化事業部の在支第二種補給生として北平中国大学で国文科に進学した。国費留学生であったために、経歴が判明する。

 この待遇には、北平日本大使館警察署に勤務していた父・引田慶蔵の後ろ盾があったようで、そのことを隠すためか、補給生への推薦を別人に依頼している。

 引田は昭和14年に北平中国大学を卒業した後、外務省通訳生として採用され、そのまま興亜院に転属となった(当人の志望は最初から興亜院であった)。

 卒業時には、41日間の研究旅行を公費で実施し、北支事変以降の新興文化や新劇・旧劇の状況、文化施設の状況等を見聞している(主な目的は「各地の人情風俗」を知る事であった)。

 引田が、北京を中心とする日本人文学結社「燕京文学会」に参画したのは、大学卒業を6月に、研究旅行を7月に控えた昭和14年4月のことであった。同人誌『燕京文学』の編集兼発行人となった引田の活動は、編集後記に継続して記されている。

(以下は鄒双双「黄塵万丈を彷徨して ―日中戦争期の北京における日本人結社「燕京文学社」について―」『国文学』 第99号、2015、関西大学文学会、の記述による)

『燕京文学』は、「昭和十四年三月二十五日納本昭和十四年四月一日発行」、「編輯兼発行人」が引田春海で、北京新聞社印刷部から印刷され、「北京米市大街青年会三楼四縦燕京文学社」から発行された。以後、1944年9月発行の第18号で終刊するまで、引田は編集を継続したようである。

『燕京文学』の同人で作家として知られた人物に、『北京飯店旧館にて』などで知られる中薗英助がいる。

『燕京文学』の目標は「北支文化人全体の雑誌」をつくる事であったが、一方、日本人であることが同人の必須条件であり、かつ日本語を基本とする誌面であったため、中国文化人の参画を得ることができなかった。

大きな影響を後世に残すことは出来なかったが、立石伯は「『燕京文学』に掲載された諸作品を読んでみれば、相当こなれた、文学としての質の高いものが多い。中薗英助、飯塚朗、野中修、江崎磐太郎、長谷川弘、引田春海、清水信などの諸作品は文学として悪くはない小説、評論群である」と評価している。

昭和19年以降の引田春海については、現在、筆者は知る所がない。是非ご教示をお願いしたい。

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