見出し画像

父の人生を変えた『一日』その52 ~日本に帰国~

その52 ~日本に帰国~
 米国トーメン社から辞令が出る前にライオンは何処に帰るのだろうと色々と噂が聞こえ得てきた。大阪のお客様は是非、大阪へとの声が大きかった。ところが誰か偉いさんが東京の本社に返すと言っているとの噂が流れてきた。誰だろうと思ったが解らなかった。結果は東京の本社になった。お世話になった大江シアトル支店長にしっかり挨拶してもちろんニューヨーク本社にもしっかりと挨拶して帰路についた。東京本社。全国の仕入を任される大事な部署である。しっかりと身を引き締めて飛行機に乗った。
 後で解ったことだが大江支店長が取締役に昇格内定し東京木材本部に戻る事なっており自分のそばに私を置いたような気配りであった。なるほど人事は人事である。
当時は出世するには海外を経験し特に米国トーメン社を経験しなければ駄目みたいな風潮があった。その意味ではないが海外を経験し箔がついたような感じがした。そして課長すぐに次長になり商売はどんどん巧くいっていた。私は㈱トーメンで働くつもりでいたが偉いさん達は私の人事の事を既に前々から考えていた。
「水澤電機に返さばならない」
何処のタイミングにするか色々と検討に検討を重ねた様であった。自分の意志では決定出来ない人事色々大変であった。結果的には東京本社に戻り4年して越後長岡に戻ってきた。

~倅の解釈~
 日本に帰国。親父の勤務地は東京本社。やる気満々であった。向ヶ丘遊園という駅付近の社宅へ引っ越し。あまりにもボロいアパートに家族そろってびっくりした。いまだに夢に出てくるは引っ越し初日、家じゅうのカーテンレールなど鉄でできた箇所の錆をたわしで取るのが私の仕事であった。庭付き一軒家から2LDKへの生活。サラリーマンなので致し方ない。でも家族全員、ワクワクしていた。
 親父は東京本社でアメリカでの経験を存分に発揮していた。何度か傘を届けに赤坂見附に行ったが、得意げにいつも接待で使っている料亭で飯を喰わしてくれた。「お母さんには内緒だぞ」と。向ヶ丘遊園から社宅の抽選が当たり、数か月で新築のアパートへ引っ越し。武蔵小杉へ。親父の通勤距離は伸びてしまったが、親父にとって関係なかった。アメリカ時代は赤いマスタングで通勤していたが、その時はアパートからママチャリで武蔵小杉まで行き、そこから電車に揺られ。でも父は楽しんでいた。
 私は私なりに日本を楽しみにしていた。何せ空手道の発祥の国。向ヶ丘で入門した道場が渋谷でも指導していたので、妹と二人で、渋谷の道場に通った。先日、妹と夕食している時、この話が出たが、妹はいつも稽古後に私がゲームセンターに立ち寄るので嫌だったらしい。日本独特の指導方法、流派は違えでも勉強になった。でも、どうしてもアメリカで経験した空手道の輝きが忘れられなかった。ひたすら公園などで、自主稽古して、アメリカでまた空手をやることを夢見ていた。
 中学2年になり、アメリカに留学したいと両親に。そのころはあまりにも勉強ができない私を私立の桐光学園というエスカレ―アー方式で高校まで行ける学校に両親を入れてくれていた。金がかかっていた。勿論、両親は猛反対。そもそも、中学生で留学なんて、この時代聞いたこともなかった。でもシアトルの空手の師範と先生に手紙で想いを伝え居候させて頂けることは決まっていた。どう説得しても両親は反対。しまいに、国際電話にてシアトルの師範と先生にも断りの電話を入れてしまった。ここで私はプツンと線が切れた。完全にぐれた。当時、はやっていた「ろくでなしブルース」にはまり、髪の毛を染めて、煙草を吸い、完全に悪になっていた。
 グレていたが、大好きな空手は続けていた。喧嘩でつかえたからである。形が好きだった少年は中学の空手部で組手が大好きな野蛮な野郎になっていた。そして、ある大会で、久しぶりに形の試合に出た。練習していなかったので、自信はなかったが、そうであればと思い、シアトル時代、打っていた「セーパイ」という形をうった。幼少期、叩き込まれていいた動きが出来た。結果、優勝。この勝利がきっかけに、またアメリカへという思いが強くなり、両親に内緒でアメリカ大使館へ。結論、ビザまで取れたら留学を許してくれるとのことまで両親を説得。この時代、簡単にビザは取れなかった。アメリカ大使館の面接で空手の形を演武し、この日本文化を伝えたいため英語を勉強したいと嘘を並べた。奇跡が起きた。ビザ発行が決定。両親も困っていた。
 ここで親父と私の人生のターニングポイントが同時に来ていたことを今になって気づく。親父は長岡の母の実家の家業を継いでほしいと言われていた。母の妹の旦那が継ぐはずだったがもめにもめてどうにもならなくなり、会社も倒産寸前まで陥っていたという。そこの私の留学の話し。親父には聞いたことは無いが、もしかしたら、私を留学させるため、長岡に戻ったのではないかと考えることがある。ホストファミリーへの謝金は3か月で1000ドル。約10万。私の生活費が毎月3万。サラリーマンにはキツイ出費である。そして、お互い腹をくくった。親父は私が中学3年の時に長岡へ戻る決意。私はそのままアメリカ留学の決定。お互い、その先に待ち構えている困難を当時は分かっていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?