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第一章 最果ての島に咲いた狂愛[闇世編] 0001 藍色の辺獄

たはむれに 母を背負いて そのあまり
軽きに泣きて 三歩あゆまず ――  『一握の砂』(石川啄木)

【初日】

 人は死ぬ時に凄まじい苦痛を感じるという説があるらしい。
 あるいはその逆で、完全な静寂と無に包まれて停止する、なんて意見もある。

 少なくとも、俺の意識が戻った時、あの全身を舐めなぶるような粘着質の炎熱は、吹き散らされたように消え失せていた。

 何が起きたのか、を逡巡することさえ俺は忘れていた。

 青、青、白。
 白、青、白、白。
 白、青、青、白。
 白、青、青。

 眼前に広がる暗幕の中に、淡く蛍光のような明滅が広がっていた。
 意識と空間が茫漠としていている中、星灯りというには、その明滅達は淡すぎるように思えた。
 同時に、色というにもろうとしすぎていて、まるで染み出すような曖昧さは、ひどく現実感が無かった。

 だから、俺は自分が死んで、ここはあの世への道中なのかと思った。

『目を閉じると、青いチカチカとした閃きが見えるんです。そして、それをじっと見つめていると、ぐにゃぐにゃとして――なんだか生き物のような、そんな無限の文様が見えてくるんですよ』

 大学一回生の夏。
 死んだ先輩にこんなことを言ったことがあった。
 すると先輩は、にやりと笑って、こう言った。

『目を閉じると"化け物"が視えるらしい。そいつが東洋じゃ曼荼羅として、西洋じゃセフィロトの樹として意識の向こう側にある真理の世界への門とも理解された、て話だ。目に見えるものが真実ではない、て話だが、実際はまぶたの裏の血管の流れだかなんだかが感じられた、なんてロマンの無い解釈もある。でもお前は、そんなのが見えるんだな』

『やるじゃないか、■■■』

――ぴちゃり――

 と、水滴音が聞こえた。
 その瞬間、右目が濡れて突き刺されるような痛み。
 俺は反射的に悲鳴を上げ、目を押さえた。
 そして体をくの字型に曲げながら、上体を跳ね起こして――

 起こして、俺は自分がとても荒く呼吸していることに気がついた。

「……どこだ、ここは」

 痛みのあまり、ごしごしと目をこする。
 水滴によって眼球にひっついたまつげを追い出してから、俺は辺りを見回した。

 妙な空間だった。
 炎の気配は皆無。それどころか、ついさっきまで這いつくばっていたはずの、あの無機質な高層ビルの床や天井、壁の気配すら無い。

 代わりに、淡い青と白の仄光そくこうが明滅し――ごつごつとした岩肌が見渡す限りに広がっていることに気づいた。

 比較的平坦な地面に対し、ところどころ、天井から岩の柱が垂れ下がっている。
 その直下には、同じように岩の柱が天に向けて屹立していた。
 まるで、両手の人差し指を合わせようとするかのように、二つの岩の柱が上下に向かい合う。

 そんな光景が林のごとく視界の向こう側まで続いている。
 それぞれの向かい合った岩の柱達の間を、天から地に向けて、水滴がぽたぽたと垂れ落ちていた。

 つまりここは、鍾乳洞だ。
 どこからどう見ても天然の洞窟だった。

 あの大火の中で救助されるかさらわれるかして、その後でこんな洞窟にでも担ぎ込まれたのか? と自問する。
 だが――ここでは、俺の常識なんて全く通用しないようだ。

 青、青、白、白。
 白、青、白。

 最初から俺の目を捉えて離さなかった、この謎の仄光。
 それらは確かにそこに自然現象として存在し続けていた。
 彼らの淡い明滅に照らされて、天然の洞窟の凹凸と起伏に富んだ岩肌が浮かび上がる。
 それは数百年の水滴と水流によって穿たれ、象られたものだった。

 注意深く観察していると、どうもこの光は――岩肌の"裏側"から染み・・出ているように見えた。
 たとえば、カーテンだか薄布だかの裏から懐中電灯を点けてみたら、こんな風に明滅するものなのかもしれない。境界がぼうと溶けているかのように。

 さらに不可思議なのは、その光っている場所だった。
 およそ規則性が無いのだ。
 たとえば何か、発光する虫や植物、菌類がそうしているのだとしたら、同じ場所が定期的に光るのだろう――これは、そうではなかった。

 ある場所が光ったかと思うと、別の場所がまた光る。
 青く光った場所が、数秒後には白く光る。
 天井で、地面で、壁の岩肌で、岩の柱の先端で、または側面か、その根本で。

 集めて固めて飛行する石でも作れそうだな、と夢想に逃げたくなった。
 こんな光景、いや、自然現象は俺の知る世界には存在しないのではないか。
 確信にも近い予感がして、知らず胸の奥がざわめくのを感じていた。

「夢じゃないんだよな」

 頬に触れようとして、ついさっき、水滴に眼球を痛めつけられたことが頭をよぎる。
 そして思い出したように――猛火の奔流から逃げようとして、ひねって痛めた足首が、再び痛んだのだった。

 だが意外なことに、痛みは思ったほどではなかった。そのせいで、また思考を冴えてしまった。

「足をひねったのが幾分マシになる程度は、時間が経ったってことなのか」

――夢想していないで、立ち上がって、さっさと歩け。

 誰かにそう言われているような気がした瞬間、背中にひんやりとした空気の流れを感じた。
 10秒に1回ぐらいは水滴音が聞こえる中に晒されていたために、着たままだったバイクスーツは水分を吸ってすっかり濡れ、冷えていた。
 米軍の放出品だとかいう、頑丈なだけの黒い軍用ブーツの中にも水は染み込んでいたようで、脱がなくても、靴下が湿気っていることが感触として伝わってきた。

 俺は頭を軽く掻いた。そして大きなため息を吐いた。
 このままでは体が完全に冷えてしまう。暖を取らねばならないし、ここが何なのかもわからないが、まずは外へ出る道を見つけなければならない。

 足はまだ軽く痛むので、負担をかけないように立ち上がり、俺は空気が流れてくる方を見やった。

 青と白の明滅が、外の光の届かない空間を照らし出す。
 藍色の暗闇の中、おぼろげに、今俺がいる場所は一本道の途中のような場所であることがわかった。
 道の広さは、大人が3~4人、手を繋いで並んで通れるぐらいといったところか。
 目測したところ、天井の方は結構高い。高級ホテルのフロントの天井ぐらいはありそうだ。

 濡れた背中にまた空気の流れが届く。
 外はそちらだ。そちらへ行くべきだ――というのに。

 空気が流れてくるのとは反対の方角。
 洞窟の奥の方が気になってしょうがなかった。

 不規則であるはずの、青と白の明滅と、それが照らし出す藍色の濃淡。
 不規則であるはずの、水墨画の世界に迷い込んだかのような、その光陰の調べ。

――それがまるで「声」のように感じられた。

 幻聴か、幻視か。
 それとも共感覚としての幻覚か。

 呼ばれた気がしたのだ。
 あまりにも現実感の無い様を、生々しく、現実感たっぷりに五感で感じ取らされていた。

「いいや。行ってみよう」

 行き詰まったら、とにかく行動してみる。今までの人生で俺はずっとそうしてきた。
 それは俺の長所でもあり、短所でもあっただろう。

 意を決して、足を前へ向けた。
 洞窟の奥に向かって、俺はそのまま歩き始めたのだった。

   ***

 2時間ほど、仄光が照らす藍色の薄闇の中を歩き続けてきた。

 道中、デコボコがかなり激しくて歩きにくかった。窪みに足を取られそうになること二度だったので、俺は夢想がちな気を引き締めて、足元に注意しながらゆっくり歩いてきたのだった。万全の調子なら何倍も早く移動できた距離だった。

 そして、開けた場所へ出てきた。
 そしてそこに、奇妙な物体があった。

 それは青く光り輝く透き通った結晶だった。
 だが、何千カラットの宝石だかではない。そんな天然の形状ではなく――正確な直線で構成された、くるくると回転する正八面体だった。

 思わず、息を呑む。
 奇妙で不可思議で幻想的で現実感が無いというのに、その圧倒的な存在感に、全身の細胞がぶるぶる震わされるような戦慄を感じる。

 皮膚が総毛立つようにして、俺は立ちすくんでいた。

 間違いない。「これ」が俺を呼んでいたに、違いなかったのだ。

 生唾を嚥下する音が耳に届く。
 その音で、俺は自分が生唾を飲み込んだことに気づくほど、意識と注意力の全てをそれに奪われていた。

「突然変形して、レーザーなんて撃ったりしないよな?」

 わざとそんな軽口を叩く。
 誰に対してでもなく、俺自身に対して――必死に喝を入れるかのように。

 意気地を振り絞って正八面体に近づく。
 近づいてまじまじと見てみれば、思ったほど大きくはなかった。
 ちょうど、俺が借りているアパートに置いている、一人暮らし用の冷蔵庫と同じぐらいの大きさしかない。

 正八面体は、俺の思いなど知らぬように、ただただふわふわと浮かび、漂っている。

――鍾乳洞を覆っていた、あの青と白の仄光。そいつらはすべて、この青い正八面体の結晶を中心に、洞窟中に広がっているのだ、と俺は直感した。

 皮膚がチリチリと刺激される。
 しかしそれは、炎熱で炙られるのとは全然違う感触であり――あちらが思考を狂わせるものならば、このエネルギーの奔流のようなものは、むしろ意識を冴えさせる類のものだと思われた。

 近づいてわかったことだが、正八面体の半透明なガラス面のその奥で、文字のような文様が泳いで・・・いた。
 青い光の奥から、それらは小魚のように表層へ浮かび上がってくる。
 対流するようにゆらめき、一定の規則で流れていき、そしてまた奥深くへ潜水していく文字もんじの魚群達。

 俺は確かに夢想家だが――こんな幻覚を堂々と見るほど壊れてはいないはずだ。
 そんな風に自嘲しようにも、白昼夢のようなアクアリウムが眼前に、現に厳然と存在していた。
 ありえない現象が、実際にこうして繰り広げられていることを、否定することはできなかった。

 そしてそれに、強く惹きつけられている自分がいることに、俺は気づいていた。

 俺は心のどこかで、また・・こういうものと遭遇することを、求め続けてきたのだ。
 あの忌々しい事件以来、永久に俺の人生から喪われてしまっていたはずのものを、ずっと、もう一度求めていたんだ。

 あるいは失意と厭世の裏返し、逆転への念慮。

 突き動かされるままに、そして、今自分がどうしてわけもわからずここにこうしているのか、その原因となったこの数年間のことから――あえて目を背けるかのような、そんな後ろめたい心をわずかに感じて、それを考えないようにして、俺は、八面体の表面を泳ぐ文字の一つに、触れる。

 そして、次の瞬間。

 視界がホワイトアウトする刹那、凄まじい量の「情報」が頭の中に流れ込んできた。

――"有意思存在"との接触を検知――

――種族評価を試行……成功。『人族』と推定――

――系統評価を試行……失敗――

――系統評価を再試行……失敗――

――上位存在の介入を検知……対象を"客人まろうど"と断定。系統を『人族<異人系>』と定義――

 無機質な機械音とも、人の声とも聞こえる不思議な音声が脳内に流れ込んでくる。

 続けて、頭の中に混沌が炸裂する。

 見たこともない極彩。
 見たこともない景色。
 見たこともない生物、構造物、建築物。
 見たことなどありえない言語の文書。

 雑多にして混沌カオスで脈絡など一切無い大量の「情報」が、五大感覚全てを震わせ共鳴させ粉々に破壊するようなイメージの奔流となって、容赦無く意識の中に注ぎ込まれてくる。

 まるで、目の前に百台のテレビがずらりと並んでいて、しかもその全部の画面が不規則かつ高速で次々とチャンネルを切り替えられ、映る映像が次々に切り替わっているかのようだった。
 それか、演出とスピード感ばかり凝りすぎた出来の悪い絶叫アトラクションに乗せられ、思考と視覚の処理能力を超える速度で空間ごと特急状態でどこかへ連れ去られてしまったかのようだった。

 次から次へと超高速で切り替わる「イメージ」の渦。

 脳みそに手を突っ込まれて、ぐるぐるかき回されるような強烈な不快感。
 奥歯をガタガタ揺さぶられ、目の前がチカチカするような苛烈な眩暈感。

――領主マスター登録を試行……失敗――

――領主マスター登録を再試行……失敗――

――上位存在の介入を検知……対象の構成法則の世界則照合を強制試行――

――自在法則の脆弱性を検知。則縛法則の脆弱性を検知――

――上位存在の介入を検知……対象への『抑制ルール』の適用を強制開始――

――上位存在の介入を再検知……対象への『種族改変』の適用を強制開始――

 全身を轢き潰されるような"衝撃"とバラバラに引き裂かれるような"激痛"。
 血の一滴、神経の一筋に至るまで粉々に破裂させられたかのような"暗転"。

 火炎地獄をさまよい、藍色の異世界に迷い込んで、生きているのか死んでいるのかもわからないまま、俺は、多分そのまままた気を失ったのだと思う。

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