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田んぼのカモを捌いて食べる

カモをいただく

 ガアガアと鳴くカモの群れ、近づくと逃げていく、追い詰めて網で捕まえる。バタバタと暴れる網の中、隙間に足が絡まって痛そうだ、羽の根本を捕まえて、頭を隠すように抑える、するとすっかりおとなしくなる、カモはどんな心境なのだろうか、エイと刃で頭を落とす、一方で喉笛を切りを放血させる、どちらがカモのためだろう、あれこれと想いを馳せる、いずれにせよ人間の都合で、他の命を奪って生きている事に改めて気づく。

 切り離された頭を握る、まだ瞬きをしているのを感じる、羽や足もジタバタと動く、生暖かくて嫌な感覚、流れ出る血の量は思いのほか少ないが、力強さを感じる赤、頭をどうしようかと悩んでいると、ボイっとまとめる猟師さん、目の前には首のないカモの姿、ザァザアと強い雨が降り始める。終わってしまえば、いいとかわるいとかそういう事じゃなくて、誰かがどこかで日々当たり前にやっている事だろうと、ただ向き合う。
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 雨をよけてビニールハウスに移動する、手羽をハサミで切る、羽をむしる、軍手で皮をはぐ、ハエやブヨが集まってくる、皮がなくなるとすっかり肉だ、腸と内臓を取る、砂肝の砂を洗い流す、胸骨に沿って肉をそぐ、腿の間接に刃を入れる、見慣れた鶏肉の形になっていく、最後には残った部位を鳥ガラとして集める、肉になるまで心動かされながら1時間程度、残酷だなんて断じる事で、面倒くさがって向き合ったり手を下したりするのを遠ざけているだけなのではないか。
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 各部位ごとにさっと火を通して食べる、なんとも食べたことのない味わい、美味しいけれど普通じゃないおいしさ、特に肝臓や心臓は美味しい上に不思議な元気が湧いてくる、集まった鳥ガラでスープを作る、命の最後の断片を濃く煮だすのはいつも感動的だ。ガラだけでなく頭も煮込む、スープやカレーにしてすする、雑味も含めて非日常的な美味しさ、敢えて命を奪うと触れる事にしたなら、命の取捨選択をしたのなら、せめて自分の命にも少しでもまともな意味を見出したいと、そんな風に最後に思う。
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イベントのお話

 今回熱中小学校のイベントとして田んぼに放ったカモをみんなで捌いていただくという企画を行いました。今に至る経緯にはいくつかの文脈があるのだけれど、一番は有機農業のシェア田んぼ「コモンズの喜劇」の取り組みがベースにあります。田んぼをコモンズの中心に据え、人が関わる事でより豊かな環境をつくろうという取り組みです。取り組みを行っていく中でお米だけでなく、稲わらってめっちゃ使えるよねとか、田んぼの雑草って食べれるの多いよねとか、カモもいるけど最後どうなるの、とそんな話から始まったように思います。

 通常田んぼで除草や虫取りで働いてもらったカモは最終的にはカモ業者さんに引き取ってもらって、冬まで肥育して私たちにも身近な油の乗った肉になっているそうです。各家庭で鳥を飼っていて絞めて捌く機会があったなんて昔話的に聞く事は多かったけれど、実は身近に相変わらずそういう環境はあって価値観や関係性が変わってしまっただけだと改めて気づかされます。そんなところに以前鶏を一緒に捌いたカッパ先生こと、飯尾裕光先生にも来てもらおうという事で企画が実現しました。飯尾先生ご自身も里山畜養という事で、家畜と暮らしがもっと身近にある文化を提案されて、様々な活動をしています。そんな色んなご縁がつながり今回の企画にいたりました。知ったかぶりして何かの大切さを謳うのではなく、まずはちゃんと向き合うのが大事と改めて考えています。

改めて考える持続可能性

 持続可能性について語られる問いただす事の多い今日この頃ですが、昔から今にかけての環境が持続できなくなる要因は、ほとんど行き過ぎた人間中心主義のようで、物事を人間の物差しや感性でばかり図ると現実世界の環境やシステムはどんどん歪んでいくように思います。ただ一方で人間の想像力で現実を歪ませることで自然に立ち向かって生き延びてきたわけですから、その想像力から生まれる新しい世界にも価値があるように思います。
 最終的に私たちが何を選ぶかという事なのかもしれないし、個々人ではどうにもならないうねりの中にいるのかもしれません。もしかしたら人間の持続可能性なんて実はこの大自然や宇宙からしたら、何の問題でもないのかもしれません。それでも自分たちの命のスケールで嬉しいとか悲しいとかなんかいいねとか感じて、それを元に考えるしかないのですから、日々を受け入れながらこの先どうするかとよりよい選択していきたいですね。


カモ捌き リアルな写真


※閲覧注意




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