10代~20代当事者活動をやってみて

2009年当事者活動を始めて5年ぐらいの頃、まだ大学出たばっかりで生活もカツカツのきつい中、それでも自分でやってた会を知ってもらいたかったし、里子の不遇を訴えていきたかった。仕事を休んで講演に向かい、人前でしゃべる事なんかホントはしたくないのに1時間一生懸命喋った。主催の方からもらった謝礼2000円。仕事を休まないで講演の機会を失してしまうことが怖かった。誰かほかにやってくれる人はいないのかともどかしかった。イベントをする側の人も正直当事者をなめてんのかって思ってた。仲間内で酒を煽りながら散々愚痴ってすっきりするのが習慣化していた。休日もバイトをすれば給料が入るが、当事者活動を優先させていた。 
俺は金が必要だったから、多くよこせとは言わないから、活動した分は少し出してもいいかという提案をしたら、内部からも外部からもものすごい反発にあった。
ここで辞めてても良かったかもしれない。でも辞めなかった。必要としている様に見える当事者が目の前にいたから踏ん切りがつかなかった。
セルフマネジメントが全くできていなかったし、誰もプロデュースはしてくれなかった。一緒にやっていたメンバーとも歳が離れていたため、だいたい皆30歳ぐらいや、結婚なんかを期に辞めていった。
皆、自分の生活もままならない状態で人を助けたいと思っている。誰かの支えになろうとしている。
支援者のみんなも、先輩たちも世の中を良くしようとしているのはわかったけど、お互いに歩み寄りが少なかった。

目の前の当事者の拠り所になるという事と、世間にあまねく主張をしていくという事との活動としての乖離が激しく日々が大変だった。
会社員としては向いていない、慣れてもいない営業という職業に無心にしがみ付き、職を失いたくないという強迫観念の元、すり減らしていた。

今思えば、内部の会にも他の活動をしている会に対しても、本当に失礼だったと思うし世間知らずが現実も知らずに大口叩いていると思われていたように感じる。そして当時はまだ全然そういう人が許されるような環境でもなかった。敵が多すぎて何とどう戦っていっていいかがわからない状態の中藻掻いていた。

それが当事者活動を始めて6年目の頃だった。
正直な話、各地で公演をしてもあまり手ごたえを感じなかった。求められている話と主張したいことがかなり違う。例えば、里親になりたいという方に里親になるデメリットを前面に押し出したような話ではなく、里親をやってみると起こるいい効果を説明して欲しいと言われたこともある。正直なところ里親をやりたがっている人の応援をしなければいけない義理もないし、現実の大変さを知ってもなお里親をやりたいと思う人が里親になればいいと思っていた。
しかし、不満がすごくあっても、あまり前に押しすぎず中途半端な内容の講演をしていた。コネクションとして関係を継続させた方がいいと思っていたこともあるだろう。

当事者活動を始めて9年目の2012年いきなり自分が代表になることになった。
会の運営メンバーの中では最年少だったので、なんでという気持ちもそこそこあったが、なんとなく皆自分の社会人として親としての生活などもありフェードアウトしていきたいんだなと感じた。
仲良くしてくれるユース達はいたが、みんな活動に対してはすごく消極的だった。このまま後輩ができてこなかったら、いつまでやり続ければいいのだろうか。そういった疑念はあった。
確かに変えたいシステムも多かった、だが圧倒的に声の量が足りなかったし、集約するシステムも持っていなかった。
今でいう居場所事業みたいなものもぽつりぽつりと出来てきていたので、共通イベントみたいなものも持ち掛けたりしたが、コトゴトく断られた。これにはかなり堪えた。他の会も横のつながりを求めていると思っていたが、実際は全然そんなことはなかった。

社会的養護の全国ネットワーク構想は何度も新しいところが挑戦したが、結局頭の取り合いで収拾がつかずに立ち消えになった。各々が個別で全国にネットワークを広げていってはいたが、細かいすれ違いが大きく、全国ネットワークに入る意義やメリットが感じられない会が多いように感じていたように思う。社会的養護の経験者は肌感だが、引っ越しの回数が多いように思うので、色んな所の会とネットワークができているとフォローがしやすいというのは当時の俺は主張していたが、皆当事者活動経験が浅いからか受け入れてもらえなかった。



たまに経験を書いていこうと思います

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