たっきーの自伝 その18


借金は依然として減っていかない状況が続き、何とかかんとかじり貧で生活を続けていた。
彼女の方は結婚の願望が強かったのは気が付いていたが、とてもこの状況で結婚ができると思えなかった。
もうこれ以上一緒にいられなくなるんだろうなと薄々感じながらも、過ぎていく日々であった。新居に引っ越してからは以前よりは彼女の病状も落ち着いたように感じた。
以前から社会的養護の子たちが措置解除になる時に何かお祝いをという事で門出を祝う会というのを化粧品メーカーと一緒になってやっていた。数年前に私が所属していたところとは別団体が引継いだが、先輩として後輩に話をしてみてはどうかと言われたので、話をしてみることにした。会はそこそこ成功したように感じたが、やはりみな社会に出ていくことに大きな不安を感じているように見えた。それが3月6日だった。
3月11日。東日本大震災があった。
東京は交通機関がマヒし帰宅難民で溢れかえった。幸い私はバイクで通勤をしていたので、何とか帰宅することは出来た。
町は混乱していた。交差点に車が多く入りすぎて全く動いていない。救急車も通れないというような状況を初めて目の当たりにした。
帰宅すると暗い部屋の中に彼女がうずくまっていた。ガスが止まっているとのことだったので、復旧措置をしたらすぐに使えるようになった。
自分の部屋を見ると別段いつもと変わらなかったが、彼女の部屋は雑多にものがあったので、神棚が落ちたりと中々な状況だった。
さすがに超絶ブラック企業だった私の会社も12日の土曜は休みになった。
テレビを見て徐々に事の重大さがわかって来た。仙台の知人はなぜかたまたま東京にいて無事だったらしいが、地元と連絡がつかないとのことだった。
そんなさなか、里親が心配になったので、電話をすると大きな声で事の次第を説明されたが、別段問題ないように感じた。
ガソリンスタンドに車が並び、紙や水などが店頭から消え、明らかに混乱はしているように感じた。
仕事の方は混乱の中新規を取っていくのは中々難しいのではという事で、電話営業だけで被害のない西の地域にメールのシステムを売ったりしていた。
北関東に進出を検討し始めていた段階での震災だったので、なかなか厳しい状況は続いてしまった。
この夏、彼女とは別れて、里親の家に住まわせてもらうことになった。
1カ月間話し合い
家では居心地がとても悪かった。生活がかなり違ったので会話などもあまりなかった。
里親宅に帰ってすぐにマルチ商法を先輩に勧められて始めた。
月に一度関西に全大会で行ったりをしていた。週末は講習会などにでていた。1年ほどやったが結果は出なかった。
2011年の秋、自分がやっていた当事者会で、運営メンバーでも最年少だった私が代表になった。ほかに代表をやるような人がいなかったからだかだろうか。
会議の際は毎回のように侃々囂々議論をしていたが、はっきり言って意見が合わない時の方が多かった。支援者である里親さんと当事者の間の乖離、当事者同士の齟齬など埋まらない問題が山積していくことが多かった。ほとんどをワンマンでこなし、予定を言って報告をするというような形になっていってしまった。全然会議自体が相談の場になるというようなことはなく、会長で最年少の私が糾弾されるような場となっていたので正直いつも行きたくなかった。もっとああしろ、こうしろと言われたが、誰も実業務的に負担をしようとはしてくれなかった。
週末はマルチと当事者活動ですべて消え、この頃は本当に遊びに行けない日々が続いた。

年末ごろ、本格的に今の仕事を続けない方が良いと思い、転職活動を始めた。

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