痛みを知った意義

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かれこれ四年前、大学二年生という一般にはこの世の春を謳歌するはずであった時期、私の心は深潭に落ちていた。

所属していたサークルでパワハラに苦しみ、裏切られ、孤立し、サークルを辞めた後も心を何度もどん底に叩き落された。

それでも、理解ある大切な友人達との対話、短期ながらも思い切った留学、そして一歩間違えればさらに症状を悪化させかねない自己との絶え間の無い対話の末に私は立ち直り、今の境地に至った。
この経緯の話についてはいつか書き記しておこうと思う。

とにかく、私は過去に精神を病み、それを乗り越えて今に至る。
この克服が寛解なのか完治なのかは分からないが、こうした経験はあくまで自己の内面や行動にのみ影響を及ぼし、現実世界や他者に大きな影響を及ぼすものではないと思っていた。

先日、数年ぶりに朝まで飲み屋で過ごしたの後に、地下鉄の始発を待つ同期を家に招いた。
そこで彼から、「まだ病院には行けていないが精神疾患を抱えている」というカミングアウトを受けた。

そう話す彼の顔は暗かった。
それでも私は、そのカミングアウトをしてくれたことに感謝を伝え、その勇気を称えた。

過去自分が病んだ経験を織り交ぜつつも、基本は彼の話を聞き、彼の意志や気持ちを肯定し、自分の視点から与えられる選択肢を提示することで、彼と一緒に考えを整理した。

過去の経験やその後学んだことを活かして、押し付けるのではなく、彼に与え、彼自身が行動を起こせるように促すことを心がけた。

そして地下鉄が動き出す時間になり、彼は帰っていった。
心なしか、表情は数時間前よりも明るく見えた。

痛みを知ることで人の痛みを知れる。
言葉にしてみると軽薄で、物事の本質ではなく表面に触れているだけかもしれない。
それでも、人が抱える痛みを感じ、理解し、導く。
これを出来る事が、私の個性の一つであり、魅力であると思う。




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