見出し画像

トイレで稼ぐ手柄


私の職場のトイレはスリッパを履き替えて使用する仕組みだ。これは一般的な話であろう。おそらく、学校のトイレはこうなっていたと思う。「履き替えるは面倒だなぁ」と思いながらも履き替えて用を足す。おそらく他の人もそうだ。特に革靴は脱ぎ履きが面倒だ。

そのトイレは我々の職場のメンバー以外にも、近隣の店舗の従業員も使用するが、とにかく男子トイレのスリッパが乱れている。スリッパは2セットあるが、片セットだけの時や、2セットとも乱れている時もある。スリッパを正しい位置に置くための定位置の黄色のシールが設けられているが、そんなことお構いなしに放り散らかされている。

一方、真隣の女子トイレのスリッパはいつもきちんと揃えられている。なぜ、同じ職場の従業員が使用するのにこんなに違いがあるのかわからない。


しかし、私はこの状況を少し嬉しく思っている。

それは乱れているスリッパを揃えることで、私が目標としている「一日一善」が達成できるからである。



自分で大っぴらに言うことではないが、私は高校時代から「一日一善」を心掛けている。これは野球の部活を通して、教えられ、学んだことであるが、グラウンド内でも外でも心をきれいに保ち、モノを大切にしておかなければ野球に限らず、何事も上達しない。

また、これは一日一善ではないが、高校時代に他のいくつかの公立高校と合同練習をした時の話がある。桜ノ宮高校という大阪市の公立高校のボールを合同練習に使わせてもらっていたが、練習後に練習に使っていたボールがたった一球無くなってしまったようだった。我々が片付けや着替えをしている中、桜ノ宮高校の選手たちは全員でそのたった一球をずっと探していた。この姿勢に私はビックリした。桜ノ宮高校の監督は「見つかるまで帰られへんぞ」的なことを言っていた。

桜ノ宮高校は公立高校ではあるが野球の強豪校だ。そしてなにより、その強さの秘密はこの道具、ボール一球すらも大切にする姿勢なのだ。彼らは道具を大切にする気持ちをしっかりと叩き込まれている。

道具を大切にする気持ちや感謝の気持ちが無ければ、成功には近づけないのだ。


そういう実体験もあって、一日一善を心掛けている。ただし、毎日必ず、良いことができるとは限らない。私の力で「善」に持っていくことができることがあればするが、無ければその日は一日一善はできない。また、自分で一善になるような状況を作り出すのは、本末転倒であるし、ただの偽善者に過ぎない。

他に、人が見ているときにすることは基本ノーカウントだ。例えば、隣の人が落とした消しゴムを拾っても、それはもはや当たり前の行為であろう。「善」ではなく、人としてと当然の振る舞いだ。

誰も見ていない時にするのが本当の「善」であると個人的には思う。これ見よがしにするのではなく、あくまでコソッとする方がカッコいい。


先述のトイレのスリッパの話に戻るが、確かにスリッパがそろっている方が気持ちがいいが、キレイにそろっていると私は一日一善を達成できない。望むべきことではないが、スリッパが散らかっている方が私は自分の一日一善をしたいという欲求を満たせるのだ。

私も本当は、願わくば、スリッパが揃っていて欲しい。また、理想を抱きながらスリッパを毎日揃えている。しかし、同時に一日一善を達成したいという自分も確かにいる。


他のところで良いことをすればいいのではないかと思われるが、毎日の電車通勤による自宅と仕事場の往復ではそれは難しい。チャンスがないのだ。

確かに、他の人のためにドアを開けておくといったことや備品の使用時には相手が誰であれ譲るようにはしている。だが、マイルールでいくと、それらは他人の目がある、あからさまな行為であるので、一日一善にはカウントされない。

こういった理由から、「スリッパは揃っていて欲しいが、また同時に乱れていて欲しい」と思う。ただ実際は、私がどう思えど、多くの従業員が使用するため、スリッパは必ず乱れる。結局、私の思いに連動するわけではないので、どう思っても同じだ。

善良な市民としての私から見た時は、スリッパが揃っていて欲しい。一方、一日一善を達成したいというエゴイスティックな私の視点からすると、スリッパは乱れていて欲しい。私はこのようなジレンマを抱えながら、明日も職場のトイレへ行くのだ。


見方や立場によってこのように大きく違いが現れるというのがおもしろい。この記事から考えると、一見良いとされる「一日一善」が良くない、歪んだ心がけとして映ることにもなりうる。

ただ、私の本望としてはジレンマも下心もない、純粋な一日一善を達成したいと思うばかりである。


「善」とはなにか?

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)