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息のしやすいマスク

最近、勤め先の福利厚生のグッズがもらえる制度で、息のしやすいマスクを手に入れた。

私はあまり例のウイルスに関することは記事に書かないようにしているが、今日はそれに関することも少し書こうと思う。

ウレタン製のそのマスクはかなり息がしやすく、手を当てると吐息がほとんど感じられる。私にとっては息がしやすいことは嬉しいが、吐息がかなり感じられるほど通気性が良いので、本当に飛沫が防止できているのかはけっこう不安に思ってしまう。

私が自分の呼吸のしやすさを取ると、それは感染拡大防止には適さない。つまり私が呼吸をしやすくなると、「感染拡大防止」「飛沫を飛ばさない」といった協力行動から逸脱する可能性があるのだ。

個人のメリットは大多数の人の不利益につながってしまう。この行動は社会学的には「フリーライダー」言う。人々は元来エゴイストであり、協力行動によるコスト負担を避けて、恩恵にのみをあずかろうとすることを指す。要は裏切り行為のことである。例えば行列に並ぶのは、周りの目や、ルール、規範が存在するからであり、それらが無ければ、多くの人は我先にと列に並ばずに行動するようになるだろう。

マスクの件も、究極に言えば「マスクをしないこと」がフリーライダー的行動である。だが、私の「自分の息のしやすさを優先し、飛沫を他のマスクよりも撒き散らすこと」も十分フリーライダー的な行動に当てはまってしまうだろう。

この息のしやすいマスクは、飛沫が飛びやすいという実証を得ているわけではないが、社会学的に考えるとためらわれてしまう。このマスクを使うかは検討が必要だ。


しかし、世間では形だけの感染症対策や、防止策がはびこっており、その在り方に疑問を抱くモノも多くある。マスクは特に口と鼻を隠してさえすればよいというような風潮も感じられるので、あまり細かいことにこだわる必要なないのかもしれない。

その他、大きく言えば、「緊急事態宣言」だ。1億人を超える国の政府が、国としてできることはこの「宣言」を発出することくらいであろう。それは分かる。見えない相手、未知の相手なだけに的確な対策は取りにくいの現状だ。だが、何度も何度も発出し、特に延長に延長に重ねると、もはや意味がない。ただのオオカミ少年のようになってしまう。

他に私の良くスポーツジムにはセルフで検温をし、紙に名前とともに記入する仕組みがあるが、そんなものはいくらでもごまかそうと思えばごまかせる。このような形だけの対策アピールには、納得ができない。ただ逃げ道(感染症対策はしていましたという)を作っているだけだ。

さすがは形式のお国、ハンコ文化の日本国と言ったところだろうか。


戦いはこれからも続きそうだ。







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