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厚労省職員23人の送別会問題について

厚生労働省の職員23人が深夜に及ぶ送別会を行ったことが批判を浴びている。しかし、たとえコロナ政策を担当する厚労省の官僚であっても、勤務時間外に何をしようが本来自由であろう。不当な役人バッシングこそが問題である。

第一に、午後11時過ぎまで宴会を開いていたことが問題とされるが、深夜までの長時間労働が常態化している霞ヶ関において、「午後7時まで」の時短宴会をすること自体、不可能である。国民のために日々夜遅くまで職務にいそしむ官僚の方々が、多忙の合間を縫って勤務後にささやかな送別の一席を持ったからといって非難するのは酷であろう。

第二に、記事にしたメディアの側が国民の批判を喚起することを意図しているきらいがある。例えば、読売新聞は「アクリル板なくマスク外し飲食」との見出しをつけ、NHKも「マスク外して会話も」と敢えて書いている。あたかも「マスク外し飲食」も問題であるかのような書きぶりであるが、ずっとマスクをしていれば口に物も運べないだろう。物を食べながら歓談することにこそ、宴会の意義がある。飲食を手早く済ませ直ちにマスクをして会話をするというのは、文化コードに反する強制である。文化や慣習は長期間を経て漸進的に形成されるものだ。ガイドラインという名の公的主体の一存で、社会の慣習を人為的に作り変えるべきでないだろう。そもそも「マスク飲食」という文化的な奇妙さを伴う仕草をベースラインに、職員個人の振る舞いを批判することも不適当だ。

第三に、今回の宴席はあくまでも勤務時間外の私人としての活動である。いくら役所の「中の人」であっても、政府の推奨するガイドラインを逐一守るか否かは、個人の自由に委ねるべきだろう。逆に、時の政権が推奨する政策に(私生活でも)全て服さなければいけないのであれば、役人の成り手は誰もいなくなる。国民にコロナ対策をお願いする立場の厚労省職員だからこそ遵守が求められるとの意見もある。しかし、それであれば、プラスチックごみ削減を進める環境省の職員が、マイバックを持参せずに毎回レジ袋を購入していれば、それも全国民で叩くことになるのだろうか。国民総監視の役所叩きは今に始まったことでないが、コロナ政策への不満を梃子にした不毛なバッシングは、現場の士気を下げるだけである。

田村厚労相は、「常識では考えられない。早期に処分を検討する」との認識を示した。しかし、この23人の職員の方々は、仲間の門出を祝うという(私人として)当たり前の愉しみを享受しただけである。本来は、「政府の立場としては不適当であるとは思うが、職員が個人の立場で行っていることには関知しない」とでも答弁して、批判をはねのけるべきだった。お膝元の役所の人々ですら守れないような時短・マスク飲食のガイドラインを国民に押し付けること自体、政策的合理性を欠く。むしろ宴会を行った23名の方々は、民を憂い、主君を諫める「国士」であるさえと思われる。

政策推進に律儀な厚労省官僚ですら(私人としては)無理難題のガイドラインに縛られないというのは、理性を保った卓見である。かつての霞ヶ関には、時の政治に対し超然とし公益に尽くす国士型官僚が数多く生息したが、現在では忖度型官僚ばかりであると言われる。政治的パフォーマンス合戦の様相を呈する現在のコロナ対策や要請の無意味さを我々国民に如実に示してくれた点で、「マスク外し」送別会を開いた厚労省老健局の職員の方々は、まさに国民感覚に優れた、称賛に値する国士型官僚だろう。政府は、彼らの諌言を真摯に受け止め、時短政策の抜本的転換を図るべきである。

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