ブラック企業就業からのキャリア挽回

僕は何を血迷ったかMARCHを卒業した後、商品取引会社に営業職として入社してしまった。時は就職氷河期、大学自体バイトと遊び以外に没頭したことは何もなく、就職活動もほとんどしなかったため僕が唯一採用通知を受けた会社は商品取引の営業だった。そもそも片手で数えるくらいしか面談もしてない。

さてそんな僕はこれまでどのような会社で過ごしてきたのかをここに記載してみる。

1社目 某商品取引会社(なんと上場会社) 営業職 1年未満

2社目 某web制作会社(社員数15名ほど)営業職 約4年

3社目 システム会社(一部上場)営業職 約8年

4社目 ソフトウェア会社(一部上場)営業、事業開発 ←今ここ

1社目が軍隊のように厳しく、厳しさ以上にテレコールをひたすら毎日行う日々に将来の不安を強く感じ1年経たずに転職を決意。石の上にも3年、この時代はまだそういう風潮が強く、第二新卒という言葉が出始めた頃だった。

その後の面接で痛感したのだが、どんな仕事であれ1年で離脱した自分が再就職することはとてもとてもハードルが高かった。加えて景気も悪くそもそも第二新卒枠での求人がない。1年以内に会社を辞めてしまった人間など社会人として挨拶ができるくらいのスキルしかなく、バツがついている奴よりもピカピカの新卒のほうが良いに決まっている。

そんな僕でも応募要件を満たしているのは金融、不動産、飲食くらいだ。僕自身は1社目でお金よりも土日休み、人間らしい生活を第一優先に規模は気にせず広告系、商社系を中心に就職活動を開始した。なぜ大学時代にやらなかったのか後悔しても仕方ないことだったが、辛かったのは孤独に一人で就職活動していたことだ。

頼れるのは自分だけ、友人は皆就職し、バラ色の社会人生活を送っている。そんな友人に就活の仕方なんて今更聞けないし自分でやるしかなかった。

エージェントやハローワークに相談し、おそらく100社はエントリーしたと思う。面接に進む企業もいくつもあったが、なかなか採用までは辿りつかない。小さい会社になれば即戦力を求められるし、大きい会社は採用枠がない。

ちなみに面接を開始した当時、僕は名刺の受け取り方すら知らなかった。何せ受け取った名刺をすぐ自分のスーツのポケットにしまってしまってたのだ(爆)

商品取引営業時代は渡すことはあっても貰うことはなかったので教わることもなかった。最も就活本をちゃんと読んでいればその位は書いてあったと思う。

そんな中で採用通知をもらえたのは、社員数15名程度のweb制作会社だった。焦っていた自分は背に腹はかえられぬ、という想いで入社することにしてしまっただが、世間知らずの僕はこの会社に最初から見事にだまされていた。

この会社は転職サイトには株式会社と記載していたのに実際は有限会社だったり、後になって気づくのだが、雇用契約書は、よくよく読んでみると契約社員の契約となっており1年ごとの更新となっていた。契約書なんてそれまでの人生で読んだことのなかった自分はそんなことすら気付けなかったのである。

募集内容と実際の内容は違うところだらけだったが、1社目を1年以内に退職し2社目も話が違うということですぐに退職してしまったら、そんなやつ一体誰が、どこの会社が採用してくれるのだろうかと。

自分が情けなく、悔しい気持ちでいっぱいで辞めるか続けるか本気で悩んだが、仕事自体は1社目とは異なり真っ当で、学べることも多かったので僕は続ける決断をした。この会社も前職同様にやはり情弱なメンバーが揃っている感じで、とても残念な感じではあったが一緒に働いてるメンバーは良いやつが多かったのを覚えている。

取引先は大手通信会社で、制作会社である以上は大手代理店が絡む仕事だ。僕の取引先は皆サラリーマンとしては高給取りでエリートだ。とにかく日々劣等感を感じながら仕事をしていた。屈辱の毎日だ。

正直就職活動を失敗しただけでここまで自分の気持ちが落とされるとは想像もしていなかった。

この制作会社は給料もとてつもなく安かった思う。ボーナスなしの額面で25万、年俸300万円という生きていくのがやっとの給与。転職するときにはお金よりも人間らしい生活、スキルの身に付く仕事でありさえすれば良いと思っていたものの、この給与では欲しいものも満足に買えなかった。

広告業界というところは見た目が基本的に派手だ。取引先の社員は皆おしゃれなスーツ、バッグ、靴、高級時計を身につけている。

仕事の活動エリアは汐留や青山などおしゃれな人たちが闊歩する街だ。商品取引時代はブラックスーツに白シャツが決まりだったので、自分の仕事に会う服を揃えるだけでもお金がカツカツだった。

スーツもYシャツも靴もブランド名など見えずとも安物と高級品はすぐにわかる。安い値段で少しでも高く見える、お洒落に見えるアイテムを探して月の残りのお金を計算しながら少しずつ買い足しをしていった。

本当に欲しいものが買えたことはこの頃一度もない。当時はTUMIやFelisiのバッグが流行っていたが、5万以上もするバッグなんて自分の給料では到底購入することはできなかった。

結局2社目は4年くらい勤め、給料も多少は上昇したが400万を超えることはなかった。いつもお金が無く、お金の計算ばかりしていた最も辛い時期だった。

給料の低さもあったが、人の入れ替わりや柱となる事業の脆弱性など将来の見通しができそうにないこともあって3社目となる転職活動をすること決めたのであった。

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