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齢三十にして
立てているのかは大変疑問です。
こんばんパート主夫。
タイトルの通り、また一つ歳をとってしまい十の位が繰り上がってしまいました。
もう若くない、というか少し歩けば初老、というか。
哀愁を感じずにはいられないお年頃、それが30代というものですね。
こんな事をいうのはご時世に逆行しているのかもしれませんが、30になった時に家庭があり、ある程度余裕を持って生計を立てられているのは幸せな事だと思いました。
それもこれもうちの奥さんのおかげであって、私だけの力ではいい歳して自立することも知らないプータローだったかもしれません。
しかし何の因果なのか、前世で善行でも積んだのか、20代でキャリアを挫かれてもこうして生活は回っており、逞しい奥さんと目に入れても痛くない娘とツン9割デレ1割の猫と穏やかに暮らせています。
ふと俯瞰するとこれだけ満ち満ちた生活を送れている人間に、一体人の興味をそそる文章が書けようものか、と思いながらこのように駄文を垂れ流しています。
関連するのですが、私の知る良い表現者は「器用に生きられず、生活に苦しみ社会に馴染めない自分の個性に苦しみ、渇き切った上でそれでもその表現しか選べなかった人」であることが多い気がしています。もちろんそういった背景を持ちながら一流の表現者になれなかった屍も腐るほどあるのでしょうが、それでも充足した生活を送れている人間が漠然と抱く「良い文章家になりたい」で果たしてその屍を超えていけるものでしょうか。
そんな事を思うと、今立っている位置が果たして幸せなのか、ひょっとすると屍の方が幸せに死ねたんじゃないか、と思う瞬間がたまにあります。
そこまで強い思いを持てていたならば、そもそも文を書けよ、生活なんかに感けてるんじゃないよ。
こんな事を考えてしまうのも、30年という取り返しがつかないような年月を経てしまった所為かもしれません。
30年を生き、伴侶を得て人の親となり、何ならどっしり居を構える目処が立っている。同世代の中では取り返しの付かなさでは頭が抜けている自負があります。
これだけガチガチに環境や道程が定まってしまっていると、その取り返しの付かなさや可動域の少なさも、見方を変えれば渇きを感じると言えなくも無いですね。
こんな夜に考え込んで筆を走らせていると堂々巡りで支離滅裂、自己矛盾だらけの文章もどきが出来上がりました。
私はいったい何になりたいのでしょうか、それを考えるのが30代のテーマかもしれません。
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