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「終わり」があるから救われる

子どもの頃のかくれんぼ。
かくれている方は陰から鬼の動きを観察しながら場所を移動し、
あわよくばこの日の終わりが来るまで見つからないように知恵をしぼる。
地方によってルールは色々あるかと思うが、
すきを見て捕まった仲間を救出する。
自分が鬼にならないように、かくれて救出して、またかくれる。
ずっとこれが続くようにあの手この手でかくれ続けたものだ。

一方、鬼になるとなんとも心細いもので、
自分の側はだれもいない中で一人奮闘することになる。
全員を見つけ出さないと次の鬼と交代できず、
下手をするとその日はずっと鬼のままになってしまうことも十分有り得る。

だけどそんな不遇な時間も、終生永遠と続くわけではない。
カラスが鳴き始めればゲームも終わりのときを迎え、
夕焼けが色濃くなってくると日が暮れてしまう前に家に帰ることになる。

初めから「終わり」があることがわかっているので、
鬼のまま終わってしまっても、そんなのはこの日だけだと割り切ることができるのである。

ーーー

年齢を重ねてだんだん大人になってくると、
不遇というか、決して喜ばしくない、
肩にかかる重しのような負荷がだんだん大きくなってくるようだ。

同じクラスや職場で馬の合わない人間がいたりするのは、決して珍しいことではない。
新しい環境につくとわからないことだらけで、何かと要領を得ないものが多くてなんともつらいものだ。
家族が入院して子どもの世話や慣れない家事をこなすのは、精神的にもけっこう大変だったりする。

だけどいろんなつらい場面も、いつか終わりが来るとわかれば、がんばる気力が湧いてくるものである。

苦手な人と一生付き合っていかなければならないとなると、これはなかなかきつい。
成長することがなく、要領を得られない状態が永遠に続くなんてことになると、自分ばかりか周りもつらくなってくる。

終わりが見えないということは、希望をいだくのが難しいということになり、場合によっては地獄絵図を見るかのようになってしまう。

楽しくない酒の席も、数時間後には確実に終わりを迎えるとわかっているから、なんとか耐えられるのであって、
もしこれに終わりがなかったら、それはそれは言葉では言い表せないほどとってもおそろしい。


「明けない夜はない」とか
「冷めないお湯はない」とか
「冬が終われば春が来る」とか
ちまたでは色々な言われ方をしている。

熱いお湯の方が良いとか、冬の方が好きだとか個人差はあるかと思うが、
恵まれない状態もときがたてば良い方向に変わってくるということなんだろう。

いつまでもつらい時間はとどまらないから、
あきらめることなく気持ちをしっかり持とう、ととらえることができる。

ーーー

だけど、うれしいこと、楽しいことだったら、それ一辺倒というのが単純に喜ばしいことなのだろうか。

しあわせと感じることだって、
それが常日頃ずっと続いてくると、
うれしいという感覚もマヒしてしまうのではないだろうか。

しあわせという感覚をある程度感じられるくらいに、
ちょっとしたつらいことやささやかな楽しいことが、
適度にくりかえされる方が、
無難なような気がしないでもない。

ほんとは楽な毎日がいいんだけど。


もし、急に目の前に仙人のような老人が現れて、
「汝にこのまま死ぬことなく永遠に生き続ける力を与えよう」、と言われたら、
これって本当に嬉しい?


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