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「次がある」ことのありがたさ

「次がある」って、けっこう普通にあるものだ。

となりの学校の生徒ともめごとが起こり、負けた方は去り際に「覚えてろよ!」と吐き捨てたりする、昔からのおなじみの場面。これは次に会ったときに、ただでは済まないぞということである。

「失敗は成功のもと」とはよくいわれるが、失敗したときに「次がある」から成功に結びつくのであって、次がなければその時点で終わってしまう。

「明日がある 明日がある 明日があるさ」という歌も、
今日がなかなかうまくいかなくても、明日はもう少しがんばろうと元気づけているのに、明日という「次」がなかったら「若い僕にあった夢」も無くなってしまうだろう。希望もなにもあったもんじゃない。

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「次がある」って、ちまたにけっこうあるものだ。

ものすごく気になっていた居酒屋に行ったものの店主とまったく相性が合わず、せっかくの貴重な夜が台無しになった。でも残念がっているばかりでなく、また次にいい店を見つければ良いとチャンネルを変えられたらそんな気分もふき飛んでしまう。

受験に失敗したとき、自分のキャリアはもうお先真っ暗だと落ち込む若者もいるだろうが、でも次の手段があるわけで、すべり止めに入ろうが浪人しようが、大人になって振り返ると希望した学校に進学することだけが成功ではないと気付いたりする。

初めての恋が実らなかったとき、もうこの世の終わりだと心底落ち込んだりする。でも初恋相手が今の配偶者となるのはなかなか低い確率なわけで、初恋の失敗から「次の」恋、さらには「その次の」恋、「その次の次の・・・」とくりかえしながら経験を積むというのはよく聞く話である。

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「次がない」となったら・・・

「反省」とは、ある行いについて振り返り、至らなかった点を洗い出し次の機会に向けて改めようとするものだけど、

その「次」がなかったら、反省って必要ないものになるのだろうか。

イベントが終わって、それが今回で最後である。
しかし我々はこの先も色々な企画を進めて行くのだから反省会をする。
でも我々はこれで解散となったら反省も必要ない、
となっちゃうのかもしれない。

「勉強」とは、自分の将来のために、知識や技術を身につけたり、
視野を広げ価値観を磨いたりすることだけど、

その「次」がなかったら、勉強すらも必要のないものになってしまうのだろうか。


だけど
不治の病で次の正月はないだろうという人、
この仕事にしくじったら次はないと思え、と圧力をかけられている人、
戦時中の特攻隊員に、次に会えることはあるのだろうかと悲しむ人、

自分の力では「次がある」ことがどうにもできない人もいるわけで、
そのような人たちが前向きに生きている姿を見ると、
ほんと何も言えずに脱帽である。

「次がある」ということはとてもありがたいことであり、
ふだんそれにはなかなか気づきにくい。

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「次がある」ことに気づいていないときは、それなりに失敗したり挫折したりして、心をいためたりするのかもしれない。
でもそんな苦しい経験がその後のバネになって、振り返るとなんとかなってきたことに気づき、人間として成長させるのではないのだろうか。

これも人生の勉強のひとつかも。


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