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DXと視覚障害〜ましろの草子7

1       はじめに


DXという言葉が叫ばれる今日、デジタルの力は計り知れない。特別なことがない限り、毎日パソコンやスマホを中心とした機械ありきの人生を送っているのが、今を生きる人類の現状だろう。

そして、真しろたちのような心眼遣い(視覚障害者)は、DXに恩恵を受け、そしてDXに泣かされてしまう人種(ここではあえてそう表現する)と言えよう。今回の記事では、主に真しろたち心眼使いにとって、技術の発展やデジタルがどんな意味を持つのかをちょっと検討してみたい。断って奥が、真しろはDXの専門家ではないし、デジタル関係の仕事はほとんどしたことがなく、機械にも強いわけではないから、とんちんかんな話をしているかもしれない。ただの一般人Mの四方山話ぐらいのつもりで、読者諸氏には読んでいただきたい。

2 きっかけ


この記事を書こうと思ったのは、海外に住んでいる心眼使いの友人からの一言だった。その人は、パソコンのスクリーンリーダーの使い方に相談があって、真しろに電話をかけてきたのだ。その人はこういった。「私たちって、技術に生かされているけど、それ以前に技術が使えなくて困ってしまうこともあるよね

。」と。技術は便利な物だ。しかしそれゆえに習得が困難な場合もある。その言葉を聞いて、改めて真しろはそれに気づかされた。


3 デジタルと心眼はセットもの


パソコンやスマホなくして、生きていくことは難しい。この考え方は多くの人がうなずきうるだろう。しかし真しろたち心眼使いにとっては、パソコンやスマホ、その他特殊な支援機器などのデジタル用品が使えなくなることは、死活問題になりかねない場合があるのだ。旅行に行くことを例に説明してみる。


まず、旅行に行くために会社に休暇を申請するとき、心眼使いは紙の書類でそれを提出することは難しい。紙で提出するにしても、いったんパソコンやスマホで作成することが多いし、できればデータで提出できるのが理想だ。提出しなかったがために、無断欠勤になってしまっては大変だから、デジタルデータは欠かせない。次に、旅行先で知らない場所へ行くときも、ウェブでバリアフリー情報を確認したり、スマホの地図アプリや信号認識アプリを使ったりしてその目的地へ向かう。紙の地図やパンフレットだけでなんとかなるわけではないのだ。もしそれらを読むにしても、紙に書かれた地図をスマホのカメラで写していったんデジタルにしない限り読むことは難しい。つまり、もしパソコンやスマホが使えずに知らない場所に行く場合、完全に道に迷うことになりかねない。と、こんなふうにかいつまんでは三田が、心眼使いは、ちょっとしたことをするにもデジタルデータが欠かせないのだ。言い換えれば、もしスマホやパソコンがなくなったら日常生活に響く可能性があるのだ。さらに言えば、デジタル技術は、さまざまな平等性を担保するのにも役立っていることになる。


4 デジタル技術の危うさ


少し露骨な表現には鳴るが、デジタル技術は所詮機械やプログラムで動いているものであって、急に使えなくなることはよくある。機械が壊れたり、アプリにバグがあったり、何かしらの理由で機械を紛失したりしてしまったら、その辞典でその技術は使えなくなる。そして、例えばそのような状況が、1人でいるときに起きてしまったり、普段慣れない場所で起きてしまったりしたらどうだろうか。もちろんこれは心眼使いでない人にとっても不安だろうが、心眼使いの場合は、日常的にデジタル技術を使っているから、なおさら不安なのだ。ちょっと画面が固まっただけでも、もし画面が見えない心眼使いなら不安になる。少なくとも真しろはそうだ。なぜここまで詳しく書けるかといえば、真しろは英国で修行(留学)をしていた際、そんなことでひやりとさせられる事案に何度も遭遇したからだ。


このような問題を解決する方法としては、代替手段を構築することと、不安になっても冷静でいることと、相談できる当てを作っておくことの三つが大切だ。他にも解決策はあるだろうが、真しろはこの三つの解決策を使いながら日常を生き延びている。


5 平等性と格差の間で


上で、デジタル技術は平等性を担保しうると書いたが、実は必ずしもそうではない。なぜなら、きっかけの部分でも触れたように、そのデジタル技術がどれだけ便利でも、それらの使い方を覚えるのが難しい場合もあるのだ。例えば、便利なアプリがあったとして、便利なのは分かるけれども、使い方が複雑なら覚えるのに時間がかかって、その便利さを享受することができないだろう。また、あるアプリや機械が便利なのは分かるが、それがその人にとって使いやすいデザインでなければ、同じように便利だとは感じないだろう。ユーザーに原因があることもあれば、デベロッパー側に原因があるときもある。つまり、デジタル技術は人々の状況を平等にしうるが、その技術をただ提供するのでは、むしろ使い方が分からずに、格差が拡大する恐れもある。この問題は、心眼使いだけではなく、年配の方や子供、他の障害を持つ方、そして機械音痴にも影響のある話だ。


真しろが特に普段から懸念しているのは、心眼使いの中にあるデジタルの格差だ。心眼使いはデジタル技術を使って日常生活を営んでいるとはいえ、みんながデジタルに強いわけではないし、みんながデジタル技術を使うことに好意的ではない。また、その技術の使い方を知ることができないまま、置いて行かれてしまう人もいる。そしていつも残念に想うのは、デジタル技術を使えずに困っている心眼使いたちに対して、「そんな物も使えないのか」と嘲笑する、別の心眼使いがいることだ。同じ心眼使いなのに、彼らは他の心眼使いを助けることはせず、デジタルの便利さだけを語ることがあるのだ。誰もが助け合うことは難しいし、人によって状況は違うから、助けたくても助けられない場合があるのは事実だ。けれど真しろとしては、せっかく便利なデジタル技術によって、情報的、精神的格差が心眼使いの間で生まれてしまうことがとても怖い。


6 ハイブリッドになろう


真しろは、いわゆるZ世代と呼ばれる時代の生まれだが、デジタルネイティブにしてはそんなに機械に強いわけではない。機械音痴だから、なのかもしれない。だがそれ以上に、真しろには譲れない考えが合った。ずばり、アナログとデジタルのハイブリッドでいようという考えだ。


さまざまなアプリや機械、サービスなどのデジタル技術が存在する今日、それらを使うことは歓迎されるべき事だ。しかし再三書いたように、デジタル技術には危うさがあるし、すぐにその便利さを享受できるとは限らない。その技術がどんなに便利でも、使い方を覚えるのに何年もかかっていたら、せっかくの人生を無駄遣いしかねない。だってその技術を使うために生きているわけではなくて、生きるためにその技術を使えるようにしたいのだ。つまり、使えるようになることより、生きることが大切なのだ。だとしたら、別に技術に頼る必要はない。技術が使えないなら、誰かに頼ればいい。自分自身でできる方法を考えればいい。つながりをたくさん作ればいい。デジタルネイティブだの、DXだの、オンラインだの、横文字だらけの令和時代、柔軟に自分らしく生きていきたいものだ。


7 Song for You


今回も前回に引き続き、槇原敬之さんの曲を紹介。今回紹介するのは、『君の書く僕の名前』という曲だ。この曲は友人から教えてもらった曲だ。「僕にとってなんてことない簡単なことが、君にとってとてつもなく難しいこともある。」という歌詞が印象的だ。デジタル技術なしには生きていけない人は多いけれど、それぞれに便利だと感じることは違うし、それぞれに不便だと感じることは違うのだ。ご視聴になりたい方はこちら。


https://open.spotify.com/track/4laugAsGAsX4U78gEFj5fm?si=RWbqwGCmTRWRFNx5vvUSIA

8 おわりに


寒さ厳しい初冬には珍しく、熱くなって書いてしまった。デジタル技術に生かされているこんにちは本当に恵まれている。これについてはやはり最後に強調しておきたい。もし自分が、パソコンもスマホも点字の電子手帳もない時代に海外に行っていたら、どんな体験をしていたんだろうか。修行を終えたあと、ずっとそれを考えている。


それでは今日はこの辺で。Have a nice day!

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