輪郭のない世界

ぽたぽたと音がして気付いた。雨が降っている。
雨自体は思っていたよりしっかり降っていて、ベランダが濃い色に染まっていた。梅雨が来る。

ベランダの窓に目隠しシートを貼った。
雑貨屋で買った刺繍入りのレースカーテンは、気に入っているものの薄さが問題だった。二枚重ねて使っているものの、外の景色がぼんやりとわかる。布の性質上、伸び縮みもしやすい。結果、閉めても隙間ができる。そんな理由で、カーテンを開けることが億劫になっていた。普通のカーテンも布地こそ厚いけど遮光ではないので明るさは十分に通すけれど。
カーテンを開ける、という行為をする気分転換を可能にするためにシートを買ったのだ。
手順は簡単だった。あらかじめ大きめにカットしたシートに、中性洗剤少々と水を混ぜたものを霧吹きで吹きかけ、窓ガラスに密着。余った分をカッターで切り落とし、残った気泡を抜いておしまい。
窓から見えた景色は輪郭を失くして、ぼんやりとした色だけになった。
ほぼ一色に近い。輪郭を失くしただけで、景色に何があったのかもわからなくなったのだ。私はその色をごまかすようにカーテンを閉めた。見たくなったら窓を開けたらいい。それだけのことだ。

ああ今日は雨なのか。
そう思って、少し安心した。雨でよかった。こんな日くらい雨が降って、ここにいる人たちが湿気や雨でいろんなことが少しずつ億劫に感じているといい。そして「こんな日だから仕方ない」と何かを少し諦めて、気ままに過ごしているといい。そうしてくれたら、私がほっとする。

東京から離れて、一年が経っていた。
もう外出に規制が大幅にかけられることもない。
ただ皆で基本的な対策をして社会をどうにか動かせ、という印象だ。
それどころか世界のニュースに目が離せなくなり、事故や事件も起きる。
大人になればなるほど、不安は増えて考えることは多くなる。
どうやって生きていこう。考えればわかることなのに。
銃を手に歩みを進める人たちは、何に突き動かされるているんだろう。

自分の理想・完璧主義な一面と、現実・心の脆さに打ちのめされている。
私はこの理想と完璧(ついでに頑固さ)を叩き壊さなきゃいけない。ほとほと自分に疲れたのだ。人に見せる自分も、自分に課す自分も。そうしなければお前は人間じゃないと罵るようなその威勢も、今となっては何も生み出していない。むしろ蝕んでいるばかりじゃないか。それらに突き動かされて生きる私はもういないんだって気付いて欲しい。
それを甘えだの弱さだの、当てはめたところで治らないものは治らない。
これは出来るだけ早く解決したい。

どうして私は、深く愛する人を1人だけにしたいのか。
どうして私は、深く愛される人を1人だけにしたいのか。
どうして人によっては、深く愛し愛される人を複数選ぶのか。
自己の欲求を余すことなく埋めるために、正直でいるだけなのか。
なぜ愛を与え合う方法の一つが、子どもを作る方法と同じなのか。
子どもを作らずに、子どもを作ろうとする行為をするのか。
誰かが誰かを思うことに、なぜ制限を設けるのか。
30代はこの疑問から抜けられそうにない。
どちらの立場に立っても、納得するまで。

歪になっても、自分の手で壊して組み立てなければいけない。
私は私の生きる理由を求め、探さなければ。
生きていかなきゃ。

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