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凸に頭をあずけてやすみたい

夏が始まった、暑い。
ネックリング?を買った、暑い。
暑い時間帯を避けようとしてみるも、暑い。

最近、仲間内で「とにかくやってみようぜ!」ムーブメントが沸き起こっており、いつも腰が重くなるあれこれをやるにも肩の力を抜こうとしている。なぜ「やらなきゃ」と思い込みすぎてしまうんだろう?好きでやりたいことはそのままやってしまえばいい、と分かりながら繰り返しこのループに陥る。

思い込みが強くなると全身も心にも力が入って、「好きで好きでやりたい楽しいこと」だったことが、怖くて大変で難しいものになる。

そんな時ほど、凸に頭をあずけて休もう。



たぶん、わたしの凸は言語なのだと思う。

小さい頃から文字や言葉に興味が強く、それはそれはよく喋っていたらしい。未だにおしゃべりは大好きだし、何事も必ず言葉にして考えて伝える。言語能力を褒めていただくことも度々あったりもする。

だけど、同時に気をつけないといけないとも思っていることがある。わたし自身が「説明可能かどうか」という基準に囚われてしまうということだ。

例えば、なんだか具合が悪いな?と思ったとき。理由はよくわからないけど休んでおこう、という判断ができるようになったのはごく最近のことで、自分の体調に対しても合理的な説明がないと動くことができなかった。

実際に「具合が悪い」と感じているのに(このセンサーもまた弱いのだけれど)、それに対して説明可能かどうかで判断してしまう。「ごはんは食べたから問題ないはずだし、クーラーもかけているし、おかしいところは何もない」と思えてしまうと、「なんだか具合が悪い」という「ハッキリと言語化されていないもの」を切り捨ててしまう。

これは同時に、他者や、外部の情報に対しても起こっていることだと思う。簡単に言えば、ハッキリしていないように見える物事に弱い。どこに軸足をつけていいかわからない足場に立つような、内臓も気持ちも不安定な感覚に陥るのだ。

そんなわたしは曖昧なものを受け付けないかというと、そんなことももちろんない。生きていく中で出会う「よくわからない」にワクワクして進んでいる。じゃあ、曖昧さに対しての自分の反応が分かれるのはどうしてなのだろう?

より自分が安心できるように言葉を磨いてきたから、きっと思い入れが強すぎるのだ。

本当は人見知りで、以前に初対面の人に声をかけることができず恥ずかしい思いをしたことを覚えている。場にそぐわない言葉を使って笑われて悲しかったことがある。

言葉がきちんと正しい形で自分から発せられればそんな悲しい思いはしなかったはずだと思い続けてきた。貪るように本を読んで文字を書いていたあの頃から、本当はただ言葉にまつわることが好きだっただけなのに。

それでもわたしの凸は言語なんだと思う。だけど、飛び出ているだけによく何かにぶつけてしまう。それでも言葉が好きだ。言葉を通して親しくなれた人もたくさんいるし、言葉にして自分を楽しませたことも、人に楽しんでもらったこともぜんぶ宝物だ。

悲しいときも嬉しいときも言葉で書き残す。それは絵との共同作業だったり、交代制だったりもするけれど、言葉が必要ないと思ったことはない。

少し悲しい気持ちになった時も、愛用のノートに気持ちを書いて、横になる。自分の気持ちがまとまらなかったとしても、大好きな言葉が覚えてくれているから大丈夫。そう自分に声をかけて、「休む」を練習しましょう。

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