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なんでなんでと問い続けられる職業を他に知らなかった

久しぶりにカメラの設定をカラーに変える。一度モノクロにハマってから随分長い間モノクロだけで撮っていた。濃淡、構図、光の入れ方、ピント、そのあたりだけで工夫して「色のようなもの」を出そうとするのは面白い。

わたしが視覚過敏なこともあるとは思うけれど、やたらにカラフルに作られているものが苦手だ。装飾的にはもちろん華やかにはなるのだけど、もともと色はわずかに違っただけでもこちらに違った印象を抱かせるし、思い起こすものだって人によって違うはずだと思う。

ここのところ、文章などを読んでいて引っかかった言葉があれば改めて調べたいという思いが強くなり、ノートの中身はそんなことばかりだ。

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「感性」「個性」「観念」そんな一般的なことばかり並んでいる。もちろん母語だし、意味はわかるのだけど、ざっくりのまま取り逃がしてる「色」があるんじゃないかと思った。

調べた結果、ただ自分がすっきりしただけだったりもするのだけど、わたしはこういう風に言葉に関して「なんでだろう、本当はどういう意味だろう」と思うことが多い。

子どもの「なぜなぜ攻撃」ってこんな感じか、もっとすごいんだろうなと思う。わたしは自分一人で親も子も完結するのだけど。

生まれたばかりみたいに、この世界のたくさんのことを「なんでだろう」と思う。

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そして「なんでなんで」と問うのは、大人になったわたしにはずっと難しかった。本当の子どもの頃からできていなかったかもしれない。

それでも今わたしは科学にも興味があるし、音楽にも、宇宙にも興味がある。全部並べると、一見、全く違うことのように思えるけど、でも、多くの人たちが子どもの頃、そうやって図鑑を見たり、外に飛びだして遊んだりしたんじゃないかと思う。

なんでなんでと問い続けられる仕事を、アーティスト以外にわたしは知らない。小さな疑問や、ふと見た何気ないものの面白い角度、そういうところから作品を作っている。

使う画材は絵具だけじゃないし、使える素材だって手法だって無限にある。どうやって展示してもいいし、展示の方法から作ってもいいし、科学みたいで音楽みたいで宇宙みたいなのだ。だからわたしは毎日実験みたいに仕事している。

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今大人気の「印象派」の画家たちは、実は当時はアカデミックな団体に猛烈に批判されていた。それまでは「忠実に描くこと」が正義とされていたから、印象派のあのやわらかなタッチでは不充分だといわれた。「彼らは印象しか描いていない」という言葉が、そのまま彼らを形容する言葉になった。印象派は当時は前衛芸術だったのだ。

突飛なことをしているように思えて当たり前だと思う。ベートーベンの曲だって当時の人たちには聴き方が分からなくて気持ちが悪くなったという。

「変な人が変なことやってるな」と思われたんだろうか。それでも奇跡的におもしろがる人もいたんだと思う。

自分のアートを何かに強く結ぶなら「自殺をしないため」しかないし、付随する好奇心や、精神疾患などの性質などで向いているものもあるのかもしれないけど、「アーティストになるために生まれてきた」なんて万が一にでも思われたくも言われたくもない。

星の数ほどいる人たちの中の「美」をわたしが作ろうなんて思っていない。ただ「なんで、なんで」と問い続けるためには、もっと生きなくてはいけないと、やっと気づいただけだから。

だからもしわたしの作品に何かを感じてくれたなら、それこそ流れ星に出会ったみたいに思うのだと思う。

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