見出し画像

作ったら見せたいもん

うまく書けないという状態、いわゆる「ライターズ・ブロック」になっている人は、作りたいもの自体の執筆は止まってしまうのに、その他の書き物はできることも多いという。
現代でいうと、「必要な書類は書けないのに、SNSにはたくさん投稿する」も近いものなのだろうか。
「書く」という行動自体は同じなのに、不思議だ。
わたしもこの状態に陥ることが、しょっちゅうある。

まさにここ数日も、noteで新しい記事の作成画面を何度も開いていた。
時には画像を設定してみたり、タイトルを設定してみたり。
だいたい内容は頭の中にあるので、書き出しをいくつか入力したりもする。
でも怖くなってしまって止めてしまう。
手元のノートや、メモアプリには大量に自分の書いたものがあって、整理する時間を設けないとすぐに自分が圧倒されてしまうほどの量だというのに。

自分に批判的になっている状態のときは、いつもだいたいこんな感じだ。
さらにこの状態に「頑張れば作れるはず。頑張りが足りていない」と、間違った気合いの入れ方をしたりする。
そして、やっと作ろうと思うと、謎に大作を作ろうとして自分に過剰な期待をかける。
今できる範囲でいいからとりあえず作ってみなさいよ、と呆れ顔で言うもう一人の自分に苛立ちを募らせたりもする。

今日は「誰にも見せないテキストを思う存分書いてみようか、それなら怖くないだろう」なんて考えていた。
いざやってみようかと思ったが、それほど心躍らないアイディアだった。
わけのわからない長文を書くのは、楽しそうだからやってみたい。
でもやっぱり、それが書けたら人に見せたいと思うのだ。

人に見せたい、という気持ちは大切だ。

「いいね」って言ってもらえるかなんてわからないし、下手したら変な伝わり方をして傷つくこともあるかもしれない。(あったからこんなに怖がっている)
でも、「作ったものを人に見せてみる」というコミュニケーションがわたしは大好きで、その相手の反応から話をしたり、また新しいアイディアが生まれたり、そういう一連のくるくる連なったプロセスがとっても大好きだ。
だから落ち葉も拾ったら見せたくなって写真に撮るし、街中で変な格好のぬいぐるみがいたらそれも写真に撮って、全部見せたい人に見せる。

自分の「作りたい」は「見せたい」と腕を組んだ双子だ。
だから引き離すなんてしなくていい。作ったら見せたい、を大事にしたいのだ。だからこれも書いた。それだけ!🐤

心のどこかに引っ掛かったら、ぜひ100円のサポートからお願いします🙌