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「勉強ができるね」なんて聞き飽きてた

小さい頃から「何か知らないもの」に触れてみて、それでまた「何か知らないもの」が増えていって、どんどん色んなことができるのが好きだった。

かといって特別いい学校に行っていたわけでもないし、学内ナンバーワンみたいな成績だったわけでもない。でも、不得意なことで困っても克服はできた。

ただ自分が興味があることを繋げていくと勉強もスポーツも楽しかったから、小中学生の頃、色々な大人の人に「勉強がよくできるね」「よく勉強していてえらいね」と言われることが多かった。そのたび当時のわたしは「またか」と思っていた。どうやって反応していたかはさすがに覚えていない。でも多分、けろっとしていたと思う。

だって好きなことをやっているだけだし何が偉いの?

勉強をしておけば大人はただそれだけで褒めてくれるんだ。

繰り返し同じようなことばかり言う大人の様子を見て子どものわたしは「勉強はしておけばいいんだ」と思っていた。好奇心のまま学ぶのは好きだったし、うんざりしたこともない。だけど「勉強ができる≒手のかからない子」だと思われるのにはなんとも言えないさみしさみたいなものを感じていた。それでも大人を困らせることはしたくない変なプライドもあった。

小さい頃から興味の強かったことは今にも繋がっていて、今、外国語をこんなに好きになるとは思わなかった、みたいないいこともたくさんあった。苦手だったことを今からやり直してみようとワクワクすることもある。

小さな頃、近くない関係性の大人に、わたし自身を見つめてくれるような深い言葉なんて望めなかったのかもしれない。それでもわたしの表現できないさみしさに、大人たちの背の高い体で上からかぶせられるような「勉強ができるね」は文字以上の意味を持たなかった。

わたしが本に没頭していたのは寂しいから。それに気づく人は誰もいなかった。でも本を読むとまた新しいことを覚えて、授業で聞いた話と本で読んだ話が繋がって、うっかり先生に話していた。

そうやってまた「自分でいることの授業」以外のことばかり捗っていたんだ。

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